2017年07月24日

東芝メモリ 結論の持ち越し

7月14日」は、東芝の運命の日と思われましたが、カリフォルニア州の上級裁判所は裁定を持ち越しました。

次回は「7月28日」に再審議される見通しです。

東芝半導体売却の結論持ち越し 加州裁判所、28日再審議 日経

米カリフォルニア州の上級裁判所は14日、東芝に対し半導体メモリー事業の売却を差し止めるかについての初審問を開き、28日に再審議する方針を示した。

同日中に結論が出るとの見方もあったが、判事は結論を示さず、議論を28日に持ち越すと述べた。

これにより東芝は28日までは事業売却ができないことになる。


非常に慎重な判断をした模様です。

WDは勝利と述べ、東芝は暫定的な売却差し止めにかわる巧みな選択だと言っています。

ただ東芝メモリの売却が、どんどん遅れています。

6月28日からひと月遅れてしまいました。

半導体事業の価値は、時が経過すればするほど賞味期限や価値が低下していきます。

カーン判事は、東芝メモリを売却完了する2週間前に、WD(ウェスタン・デジタル)に通知する提案をしています。

2週間前と言いますと、早くとも売却は8月中旬以降となります。

8月1日には東芝株は、東証2部に降格され、インデックス運用の対象から外れますから株価の低下圧力がかかります。

取りあえずは、8月10日に監査法人の適正意見のついた有価証券報告書を提出できるかどうかが見どころです。

恐らくまた延期するか、PwCあらたの意見不表明のまま有報を提出するか、どちらかです。

ぐだぐだですね。

倒産するまで東芝は、真っ当な決算は出せないのではないか?

台湾マクロ二クスへの東芝の特許侵害訴訟も係争中です。

台湾マクロニクス最終黒字 4〜6月、東芝との係争「進行中」 日経

(マクロ二クスは)特許侵害で東芝を訴えている件については「進行中」としてコメントを控えた。

米国際貿易委員会(ITC)が4月、マクロニクスからの特許侵害の訴えを受けて東芝の本社などを調査すると発表。

調査の行方次第で半導体事業の売却に影響が出る可能性がある。


株主の賠償請求訴訟と言い、WDと言い、マクロ二クスと言い、訴訟だらけです。

23億ドルで買収したランディス・ギアの売却も条件が合わず頓挫しており、スイスで上場し、東芝が保有しているランディス・ギア株の株式をすべて売却する模様です。

株主構成は東芝が60%保有しており、産業革新機構が残りの40%を保有していますが、東芝と同様、産業革新機構もランディス・ギア株のすべてを売却する模様です。

東芝:ランディス・ギアがスイス証取に上場−売却益400億円計上へ ブルームバーグ

一時は日立が20億ドルで買収を提案していたようですが、条件が折り合わなかったようです。

東芝は持ち分60%の全てを放出、売却金額は1617億円となる。

約400億円の売却益計上を予定している。

残る4割を保有していた産業革新機構も全株を売却する。

上場に伴う売却総額は2694億円となる。


海外事業からどんどん撤退しています。

ランディス・ギアは、この企業を通してスマートメーター事業の海外展開を考えて買収した企業ですが、断念したということです。

今後は「7月28日」のカリフォルニア州上級裁判所の再審議、「8月1日」の東芝株の東証2部降格、「8月10日」の有報(有価証券報告書)の提出が注目されます。

タカタ株も1桁台に落ちることなく、2桁台で遊ばれておりますが、後2日しか売買できません。

今は「27円」を付けていますが、後2日でどこまで下がるか見ものです。

タカタ(株)

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年初来安値「15円」を、いつ割るのか。

タカタ株は完全にバクチ株となっています。

エアバッグのリコール問題は、「2020年」まで続くと見られています。

ブルームバーグが動画付きで報じています。

終わらないタカタ製エアバッグのリスク−リコール終了は2020年か ブルームバーグ

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16億ドルぐらいでは焼石に水でしょうね。


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2017年07月20日

「一即多、多即一」の多次元世界 2

仏教では、三界は唯心の所現、心外無別法と言います。

天界・現界・地獄界の三界は、ただ心のあらわれであり、心の外に別に法なく、存在なし。

我々の心と離れて何がしかのものが存在していたとしても、それは我々の心とは没交渉のものであって実在とは認められない : 西田幾多郎。

空間的には、

見られる全世界(客観)は、見る者全人類の心の世界(主観)であり、主客は合一しています。

心が良くなれば、世界も良くなり、心が悪くなれば、世界も悪くなる。

主客は合一しているからです。

心とその中心にある神の心を無視して悟らず、世界(客観)が良くなることはない。

世界と存在を良くするのは、一人一人の心であって富ではない。

富を追えば追うほど世界は悪化していくが、心を知れば知るほど世界は、その知った分だけ良くなる。

富は相対的なものであり、それを追えば追うほど、その相対性から次に対立と矛盾が生まれ、その対立と矛盾から様々な悪が現象化してくる。

その富を無限に追えば、悪も無限化されて現象化してくる。

その無限化された悪を克服できるほどの悟りを有していれば、それも霊的な修行になるのかもしれませんが、克服できる者ばかりではありませんから克服できなければ、地獄に堕ちて天地が分かれる。

また大宇宙を見れば分かるように、物質は有限であり、無限化された悪を神は許容しておられない。

富を目的とした人生観は、悪を無限化します。

無限化された悪を神は許容しておられませんので富を目的とした人生観は明らかに間違っています。

また富を目的とし、無限に追いますと悪もまた無限に現象化してきますので、それを克服できない者も当然、出てきて天地が分かれます。

富を目的として天地が分かれるということは、富は我々の目的とはならないということです。

富そのものが天地分離しております。

富はあの世の天に持って帰れません。

天地を分離させるものは、我々の人生の目的とはならない。

永遠に生きる我々神の子の目的とすべきものではない。

富や地位はあの世の天に持って帰れませんが、神の正義や善を抱いた心はあの世の天に持って帰れます。

何故、かつての歴史上の偉人や天才が善や正義、愛や叡智を目的としてきたか?

それはこの世を良化するだけではなく、その価値はあの世にそのまま持って帰れるものだからです。

正義や善、愛や叡智と言った価値は、「永遠なるもの」なのです。

天地一体の価値に生きる者、これを賢人と言う。

賢人はあの世にもこの世にも持って帰れる価値を目的とするが、凡人はあの世に持って帰れない価値を有難がって目的とし、あの世に持って帰れる心を失う。

賢人は天地一体の価値を目的とするが、凡人は天地が分離した価値を目的とする。

富や地位、名誉や国益、肉体や物質は、あの世の天には持って帰れない。

すなわち天地が分離している。

天地の分離が、人類と世界の不幸を生み出しているものですから、天地の分離は神意にあらず。

宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

神の心が「天」であり、神の体が「地」で永遠に天地一体である。

この構造と仕組みは永遠に変わらず、不変である。

この宇宙の構造と仕組み通り生きられれば、これ仏教的には如来であり、宇宙即我である。

天地を一体化させる価値が神意であり、天地を分離させる価値が悪であり、世界と人類の不幸を生んでいる。

偉人が偉人であるのは、ひとえに大宇宙、すなわち神そのものが決めている。

偉人や価値の高さは、人間の多数決で決めるものではなく、神御自身、大宇宙御自身が決めておられる。

天地一体の大宇宙の構造と仕組み通りに生きた者を偉人と言う。

善は天にも地にも通じ、富は地に通じて天に通じない。

叡智は天にも地にも通じるが、地位名誉は地に通じて天に通じない。

愛は天にも地にも通じるが、肉体は地に通じて天に通じない。

天地の分離が人類の不幸の原因ですから、物質や富は我々の永遠の目的とはならない。

では人類の幸福の道とは、明らかである。

天地一体の価値に生き、天にも地にも通じる価値を目的とするということだ。

かつての偉人と天才は、すべてこの道を選択し、その通りに生きた。

あの世の天に、そのまま持って帰れる価値に生きたということだ。

いくら富に執着したとて、その富を天に持って帰ることはできない。

いくら肉体に執着したとて、その肉体を天に持って帰ることはできない。

天に持って帰れないもののために生きた時、この世が不幸となる。

天に持って帰れるもののために生きた時、この世が幸福となる。

あの世、いわゆる霊天上界の存在を不動にしなければならない理由もこれです。

あの世がないと勝手に思っているから、天に持って帰れない価値を求め、世界は不幸となっている。

あの世があると思っていれば、あの世に持って帰れる価値、いわゆる善や正義、愛や叡智に生き、この世は幸福となる。

あの世の存在の不立証こそが、この世の不幸の原因の一つ。

あの世の存在が当然となれば、あの世に持って帰れる価値のために生きるでしょうから当然、正義と善が目的となり、その悟りの分だけの幸福がこの地上に実現する。

そうせよ、と天地は教えている。

天地一体の構造と仕組みを通して神は我々人類に生き方を教えてくれている。

神の心の天と神の体の地が分離した時、この世界は不幸となり、天と地が一体化した時、全世界は幸福となる。

既に霊界人口500億人すべてを幸福にしている世界が在る。

これが霊天上界であり、これは一人一人の表面意識の奥、自我の奥、現象我の奥、すなわち潜在意識に在る。

あの世だの多次元世界だのといった世界は、我々の心と離れて存在している世界ではなく、各個人の自我の奥、潜在意識に永遠に在る。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ : ルカ17-21

多次元世界には500億人の霊人口があり、その500億人の霊と多次元世界は、すべて各個人のただ中に住している。

500億即我。

また人類70億人には一人一人守護霊なるものがいる。

守護霊とはその者の良心のただ中に在って、その者の善なる心を指導している存在です。

ふと、良い考えが浮かぶ、ふと、やさしさがこみ上げてくる、と言ったこの「ふと、浮かぶ」と言った内容でその者の善なる思いを指導している。

ではその70億人の守護霊は、どこにいるか?

幽界から宇宙界に至る多次元世界の各世界のどこかに必ず存在している。

この世の人類70億人の生命の本質とも言える守護霊は多次元世界のどこかに存在するが、その多次元世界は一人一人のただ中に存在する。

人類とは自己の外に存在するのではなく、一人一人のただ中、潜在意識に存在している。

70億人即我、人類即我。

そしてそのすべてを生かしている神は我々の生命の本質、その中心に永遠に着座している。

神即我。

霊界人口500億人もこの世の人類70億人も、またそのすべてを生かしている神も、すべて一人一人の生命のただ中に永遠に存在している。

かつてソクラテスは、「汝自身を知れ」と言った。

その「」の正体とは、これを言う。

」の中にこそすべてのすべてが在る。

そしてそのすべてのすべてを知れと言った。

神の心も人類70億人も霊界人口500億人も、また地獄界すらもすべてを知れ、と。

それはすべて我々のただ中に永遠に在る。

地獄界すらも我々のただ中、潜在意識に存在している。

これをすべて知った者を「全知全能」と言い、この代名詞がゼウス神であることは言うまでもない。

多次元世界は一即多、多即一の公理に貫かれている世界であり、華厳経の一即一切、一切即一とこれは同じです。

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界と悟りの各段階はあれども、神の存在という一点「一」でくくられている。

この「一」を平等と言う。

幽界人の本質にも神の存在は在り、如来界の神霊の本質にも全く同じ「一」なる神の存在が在る。

幽界から宇宙界まで一点「一」でくくられて平等ではあるが、その同じ「一」なる神の心の悟りには段階があり、上層霊域の霊人は、下層霊域の霊人よりもその「一」なる神の心を悟っているがゆえに上層霊域にいる。

同じ心が宿ってはいるのですが、その同じ心を悟る点において上層霊域の霊人は良く努力をし、自己を磨き、神の心を良く悟っております。

それを「一」なる神の心を基準に公平に評価すれば、結果として幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界の評価となる。

ここで「一」から「多」が展開する。

平等なれど差別、差別なれど平等、一即多、多即一、平等即差別が永遠の公理である。

実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである : 西田幾多郎

一即一切、一切即一である。

見られる全世界は、見る者全人類の心の世界である。

これは主観が客観を可能にすると言ったカント哲学と同じです。

心の主観が、世界という客観を可能にし、心が世界を創造する。

見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心が創造した世界です。

見られる如来界というその世界は、そこに住む如来の心が創造した世界です。

地獄界も同じ。

無間地獄というその世界は、そこに住む無間地獄界人の心が創造した世界である。

阿修羅地獄というその世界は、そこに住む阿修羅の心が創造した世界である。

この世も同じ。

現在の腐った世界は、その世界に住む人類の心が創造した世界です。

主観が客観を可能にする。

心が世界を創造するということです。

禅の坊主は、これを「無一物中無尽蔵」と言った。

」から一切を生ず。

方便的に言えば、霊天上界とは善の認識が客観化された世界であり、地獄界とは悪の認識が客観化された世界です。

そして一言「善」と言っても「無限」ですから、それだけの客観化された世界が上方に向かって展開しているはずであり、霊天上界は単に宇宙界で終わっているような世界ではなく、更に上方に向かって無限に続いている。

地獄界も同じ。

一言「悪」と言っても、ある意味無限ですから、それだけの客観化された世界が地下に続いているはずであり、最深部になると諸神霊は、深海魚の世界と言っていたと思いますが、暗黒の世界となっている。

霊天上界もヤコブの梯子のように無限に上方に向かって続いている。

多次元世界も大宇宙もすべて神の心が客観化された世界であり、一言神の心と言っても無限ですから、それだけの客観化された世界が無限に上方に向かって続いている。

この点を大川さんのところでイエスも言っていましたね。

私は今、宇宙界にいるけれども、私の霊域でも神が何十次元にいるのかは分からない。

神は70次元にいるかもしれないし、100次元にいるかもしれない。

それは私の霊域にいても分からない。

神の光の世界は、上方に向かって無限に続いていることしか分からない。

ただ神の心を悟れば、悟るほど光が強く大きくなっていくことは間違いない、と。

こういう言い方は、まだ神の光を基準とした言い方ですから誤解を招く可能性がある。

神は80次元にいるとか120次元にいるとか言った存在ではなく、わがただ中に永遠に在る。

80次元の存在であろうが、100次元の霊存在であろうが、言えることが一つあります。

その100次元の霊存在であろうともその生命の本質は、我々と直ちに同一である点は断言できるのです。

ただ70次元だの100次元だのと言った霊存在の悟りは、我々人間が悟ることができるような悟りではないでしょうね。

だからと言って切られている存在ではない。

下から上は分からないけれども、上から下は手に取るように分かる。

こういった関係でしょうね。

神の心を悟れば悟るほどにその能力が増す。

神は自己よりも下の霊存在を手に取るように知り、理解しているのでしょう。

そのすべてのすべてを知り尽くしている存在がある。

人間に分かるのは、ここまででしょうね。

そういった存在を神というのでしょう。


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2017年07月19日

アンタッチャブル 8

神への信仰と悟りによって生命が進化向上すれば、これを原因(神の心)として結果(神の体)霊格が上がります。

霊格が上がるほどの悟りを持てば、これを原因として結果、偉大なる真理を説いて、それが有名な過去世ともなる。

霊格も過去世も共に結果(神の体・物質)ですから適切に説いても、それは方便の善となります。

結果に比喩した善、物質に比喩した善、自我に比喩した善、すなわち方便の善です。

方便の善の有効範囲は「有限」であり、これを逸脱すれば、それが地獄界の創造原因になる。

従って方便の善に過ぎない「霊格」や「過去世」は、それは目的にもならず、さりとて否定もできない。

目的と否定の両極端の中道に入るのが適切な捉え方です。

この「霊格」を目的として無限化し、救世主宣言をしたのがキリスト教のイエスであり、方便の善を逸脱している。

あの世の地位を振りかざしたわけですね。

だからこの宗教は無意味な個人崇拝に耽り、狂信者と盲信者を大量生産することになる。

救世主も結果であり、原因ではない。

救世主信仰とは、神の体(結果)を拝んでいる「偶像崇拝」に過ぎない。

救世主信仰とは、神の体、すなわち物質を拝んでいる「偶像崇拝」ですから、必ず物質の属性の通り「矛盾」が出てくる。

その救世主に頼れば、救われるという「矛盾」である。

あたかもその救世主に頼れば、さながら万能の特効薬を駆使したかのように世の矛盾と罪悪は払われ、自動的に仏国土が作られるといった妄想に耽ることとなる。

悟りも反省もないのに救済も仏国土もありはしないにも拘わらず、救世主に頼れば救われるとする妄想と矛盾に耽ることになります。

人を救うために救世主信仰を説いていながら、逆に救われない人間を作るという「矛盾」である。

結果は物質の属性を有しているために、こういった「矛盾」が出てきます。

悟りも反省も自力であり、そのお偉い救世主さまとやらが、代わってしてくれるわけではない。

自分の悟りは自分で磨くしかなく、自分の罪は自分で反省するしかない。

真理は自力です。

ただこの自力を実践すれば、なんぴとも地獄界に堕ちることはない。

救世主に頼れば、自力で悟りを磨かず、自力で自己の罪を反省せず、ただただ救世主に頼ろうとしているため逆に救われない人間を多く作る。

救世主信仰とは、他力信仰に近い。

キリスト教的な救世主信仰で人が救われることはないが、仏教的な悟りと反省の自力の道は万人を救い得る。

救世主信仰とは、すなわち他力であり、悟りと反省の道は自力である。

他力で救われる者はいない。

霊格」は結果であり、「救世主」も結果である。

過去世」も結果であり、適切に説かれる限りにおいて有限の善としか認められない。

目的にもならず、否定もできない両極端の中道が正しい捉え方です。

すなわち「霊格」にしろ、「過去世」にしろ、「救世主」にしろ、すべて結果(神の体)ですから、目的としてはならず、さりとて否定をしてもいけない。

霊格」を目的とすれば、それは物質を目的としている者と変わりませんから、高い霊格をもっていれば、それで尊敬し、低い霊格ならば、逆に軽蔑するという心の動きで出ます。

有名な過去世も同様です。

これを目的とすれば、有名な過去世で尊敬し、有名でなければ軽蔑すると言った神の体(結果・物質)を標準とした苦楽を作る心の動きを示すことになる。

この尊敬と軽蔑は共に物質に人心を誘導している誤った考えです。

物質(霊格・有名な過去世・救世主)で尊敬したり、軽蔑したりしている心の動きですから、これは富を基準に富裕層を尊敬し、貧しい者を軽蔑すると言った心の動きと変わりません。

超能力をもっていれば尊敬し、もっていなければ軽蔑すると言った超能力を基準とした苦楽の動きと同じです。

救世主ならば尊敬し、そうでなければ軽蔑するといった物質を基準とした心の動きと同じです。

これは神の心に導いているのではなく、神の体に導いている。

この人心の動きに導くのは誤り。

霊格・過去世・救世主・超能力、富の多寡等々、目的とすれば、そうなる。

ではすべて否定すればいいのかと言えば、そうでもない。

否定をしてもならない。

これは悪の問題そのものと言えますが、どうしても目的とするか、否定するかの両極端に偏ります。

富を目的とすれば守銭奴であり、では否定すればいいのかと言えばそうでもない。

物質は有限として我々の眼前に永遠に神は示されているはずです。

目的として無限化してもならず、さりとて否定して「無し」として扱ってもならない。

物質の属性の通り有限の範囲で認めるしかない。

生長の家でいう無功徳・無所得・無所有たるものは、利益を否定している点、方便の善です。

統一(神の心)と矛盾(神の体)を、まだ自我で切っている。

現実そのままが真理である : 西田幾多郎

目的と否定という両極端の中道に入るのが、物質の適切な捉え方です。

結果を目的としている者は、物質を目的としている者と変わりませんから、必ず「矛盾」があります。

神の心の実質で尊敬しているのではなく、霊格や有名な過去世、救世主や富の多寡で尊敬している。

これは地位や名誉で尊敬したり、軽蔑したりする者達と変わりません。

神の体で尊敬したり、軽蔑したりしているため「偶像崇拝」と言えます。

あの世の霊格や過去世ですら、偶像崇拝の道と通じる道がある。

だから信次ワールドは危険なわけです。

霊格があるということは、神の心を基準とした公平な多次元世界が存在することを意味しており、過去世があるということは、輪廻転生があるということを意味しています。

多次元世界は、神の心を基準とした公平な世界の実在を意味しており、輪廻転生は一度切りの人生では、自己の完全な本質に到達し得ず、各地域と各時代に生まれ変わって修行をしなければ、自己の完全な本質に到達し得ない具体的な修行としての事実を意味しています。

GLAでは霊格と過去世を吹聴し、これによって尊敬したり、軽蔑したりする者達を多く作っていました。

結果、この物質で苦楽を作っていた。

しかも高橋信次氏の霊格と過去世の的中率は、4割ほどだったそうであり、4割ならば野球で言えば4番打者です。

逆から言えば6割は、嘘だったわけであり、その的中している4割も、第三者が確認も検証もできません。

本人だけが知っている。

あれだけの霊能力を誇っていた高橋氏にしても4割ですから、言えることはこの世の人間が霊格や過去世を吹聴しない方がいい。

むしろ霊格や過去世という結果、この物質に人心を誘導する危険性やリスクの方が高いということです。

アンタッチャブルとは、少なくともこの世の人間は霊格や過去世に触れない方がいいということです。

霊格や過去世を否定しているわけでもありませんが、少なくともこの世の人間は極力触れない方が賢明だと思います。

霊格も過去世も、実は確かに分かる部分もあるのですが、それは第三者が確認も認識もできないものです。

霊格も過去世も結果ですから物質です。

将来的には、霊格で尊敬したり、有名な過去世で尊敬したりしておりましたので、いずれその霊格と過去世を金銭で売買する不届き者が出てくる可能性がある。

これは非常に危険なことです。

霊格と過去世は、この世の人間は振れない方がいい、アンタッチャブルな側面があります。

ただあの世の諸神霊が語る分には、この限りではない。

つまり霊格や過去世というのは、諸神霊が主張する分には問題ありませんが、この世の人間が霊格認定や過去世認定をしますと問題が出てくる。

またたとえ諸神霊が語る霊格だの過去世だのでも、あくまで方便の範囲でしか認識を許されない。

目的としてもならず、さりとて否定をしてもならない有限の範囲への認識です。

これほどきわどいものなのです。

単純に霊格と過去世を振りかざして喜んでいた者がいたようですが、それは人心を物質(結果)に誘導する非常に危険な行為なのです。

霊格と過去世は、エマソンが主張しておりましたように目的と否定の両極端の中道に入るのが、正しい認識の仕方です。

霊格と過去世は、まったく触れてはならないわけでもありませんが、触れすぎると魂に危険が及ぶアンタッチャブルな領域があるということです。

諸神霊が語る霊格や過去世ならば、それは諸神霊である限りにおいて100%、正しいと認識しても構わないわけですが、それでもこの世の人間は、両極端の中道に入らなければならない。

霊格や過去世よりも、真理の実質と内容の方が遥かに重要な視点だということです。

これがアンタッチャブルです。


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