2017年03月26日

GLAと幸福の科学 9

1986年夏、イエス=キリストの世界の救世開始宣言以後、ぐんぐんと幸福の科学は伸びていきます。

『太陽の法』、『黄金の法』、『永遠の法』と救世の基本3部作も出版しました。

特に初版本は釈迦のほぼ100%入神状態で書かれた本であり、人間的なる表面意識はほとんど入っていません。

あの初版本はこの世の人間が書ける書物ではない。

大川さんは書き換えたものを、今は出版しておりますけれども、初版本に戻すべき。

エル・ランティの件もありますから難しいのかもしれませんが・・・。

何故、自己の光の業績を、みずから貶めるような真似をするのか理解できません。

特に初版本の『黄金の法』における過去世目録は完璧です。

今後も未来において西洋、東洋、中東の如何を問わず、光の天使は生誕してくるのです。

その時に分かるのです。

天使ならば本当のことが書かれてある事実が、未来の人達はみな分かるのです。

それが最も大切なことであり、未来の天使の場合、そこから神理探求を開始することができる。

神の存在証明やらあの世の証明やら、そういった次元から入る必要がなくなるのです。

それを前提としてそこから神理の探究を始めることができるために人類全体の霊的進化にとって非常に効率がいいのです。

何故書き換えるのか理解できない。

ほんとすばらしい霊言だったよね、はじめだけは。

ほんとすばらしい理論書だったよね。はじめだけは。

観自在力に漏尽通力、幸福になれない症候群、真説・八正道、限りなく優しくあれ等々、すばらしかったよね、はじめだけは。

こんなんばっかりで。

初期の幸福の科学は、高橋信次氏系統の弟子が7、8割りがた要職を占めていたようであり、大川さんを囲んでいた弟子のほとんどは、高橋信次氏の元お弟子さんでした。

GLAが大分裂を起こした時、会を出て行った弟子ばかりだったようですが、GLA系統が主流だったわけです。

そのGLA系の弟子は、高橋信次氏が大川さんを後継者と指名したから入会したわけですが、基本的には大川さんよりも高橋信次氏に帰依していた人が多かったようです。

ある意味、大川さんに失礼ですね。

大川さんの法に帰依していたわけではなく、高橋信次氏に帰依していた。

つまり大川さんを中心に回りを高橋信次氏の弟子が囲んでおり、その弟子はあの世の高橋信次がコントロールしていた。

あの世からは高橋信次氏が大川さんの巨大霊媒能力を利用して偉くなろうとしたり、この世のGLAの弟子を使って大川さんをコントロールしようとした。

GLA系統が大川さんを利用しようとした。

つまり人格性という目的を利用という手段にしようとした。

汝ら決して他の人格を手段として取り扱うことなかれ、人格は必ず目的そのものとして取り扱えよ : カント

野蛮人は自己の目的のために人格を手段として取り扱うのが特徴です。

近代はそういった人間観にはなっていない。

宗教家には多いです。

他の人格を自己の目的のための手段として扱うものがね。

こういった考えが奴隷制を生むのです。

これを高橋信次の、

幸福の科学、乗っ取り計画が、バレバレで・・

と言っていた。

指導霊ですから乗っ取るも何もないと思いますが、そう言っていました。

当然、1990年には高橋信次系統の回りで囲んでいた弟子は重要ポストからすべて外し、その霊言もすべて絶版にした。

高橋信次氏があの世から自己をコントロールできないように布石を打った。

自分を利用しようとしていた者をすべて排除したわけです。

これはこれで一理ある。

今回の救世運動の中心は大川さんだったわけですから、あまり死者が出しゃばってもらっても困るということでしょう。

また高橋信次氏の生前の教えを金科玉条のように信じ込んでいるお弟子さん相手だと相性が合わなかったというのもあるかもしれません。

高橋信次氏の教えを悪とまで言う気はありませんが、生前の教えでは全人類の救済も幸福も不可能であり、仏陀が目指していた高みは、GLAのお弟子さんでは到底理解できないレベルです。

それを未だに40年前の師の教えを金科玉条のごとく信じ込み、それ以外の教えやその範囲、高みや深さも分からず、認めず、GLAの八正道だけを振りかざしてもらっても大川さんも私も困ります。

悪魔をも救ってやろうとする慈悲が大切 : 高橋信次

こういった問題が教えにあるのです。

神への信仰と悟りによって生命が進化向上すれば、これを原因として結果(神の体・物質)現象化するのが「救済」であり、救済とは利益であり、御利益です。

よくても結果に比喩した善であり、方便です。

この救済という結果(物質)、御利益を絶対化して、悪魔をも救ってやろうとする慈悲が大切と言っていたはずです。

半分正しく、半分間違い。

大体、悟りも反省もない者を救えるわけがありません。

それでも救えというならば、明らかに御利益信仰となる。

悟りもなく、反省もない者を救えというならば、それはエゴイズムを無限化するだけです。

御利益を絶対化するとは、傲慢を意味しており、何が何でも救えばいいというものではない。

これは何が何でも儲かればいいと言う者と変わらない。

救済よりも神の心の方が大切だということです。

この神の心を無視して救済だけを言われても困る。

イスラム教でも出ています。

アラーフ・アクバル」と言い、「アラーは偉大なり」と言わせています。

神理を説けば、これを原因(神の心)として結果(神の体)、偉いと言われる。

この「偉い」ならばいいけれども、偉いを「天」に置いて、神の心をそのための「地」に置いているような者ばかり作って宗教戦争をしてきました。

神理が「天」であり、偉いが「地」で天地一体です。

これを逆転させれば地獄の創造主となる。

神の心を無視して救済という利益だけを暴走させれば、それはどう好意的に見ても方便です。

そして方便の善では人類の救済も幸福もない。

幸福の科学は、1986年から本格的に始動しますが、同時に諸神霊が霊言を大量に通信してきました。

これは人間の良心が最も高いレベルで地上に出現した状態と変わりません。

あのまま出続けていれば、ノストラダムスやその他の予言者の予言は当たっていたでしょう。

キリスト教では「最後の審判」と言いますが、死後、良心が復活し、その内部神性が自己の思いと行いを裁き、行くべき世界が決まる。

これを死後ではなく、生きている時に下す「最後の審判」を実行しようとした。

霊言とは本来、この地上人類への「最後の審判」だったのです。

諸神霊が地上に出てくることを「最後の審判」と言います。

これが出ないうちは「最後の審判」は、人類的な意味ではないということです。

これは何も霊言という形だけではありません。

天変地異や戦争という形でも出ます。

要は地上世界に神の光で干渉をしていくのです。

悪なるものは、光に接して崩壊していきます。

神の心と光に適合できる人格性のみが残るでしょう。

幸福の科学は、霊言と法でこれをやろうとしていました。

そして1986年、1987年、1988年、1989年の全盛期を迎えます。

ほんとはこの題は、はやく終わらせたいのですが、なるべく正確に検証しておかなければならない。


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2017年03月24日

如来の悟り、その5つの普遍的特徴

仏教で説かれている「如来」と言われる方々の悟りの特徴は、主に5点。

1点目は、自他一体を悟っていること。

2点目は、宇宙即我を悟っていること。

3点目は、天地一体を悟っていること。

4点目は、主客合一を悟っていること。

5点目は、一即多、多即一、平等即差別を悟っていること。


この5点が如来と言われる方々が共通して持っておられる悟りの特徴です。

この5点の特徴は、あの世とこの世を貫いている永遠の法則です。

この5点は過去・現在・未来を通して永遠に変わらない、不変の法則であるということです。

自他一体とは、大如来即大魔王であり、大如来の本質にも神の存在はあり、大魔王と言われる地獄の魔王の本質にも如来と同一の神の存在がある。

神の存在においてのみ永遠に大魔王即大如来で自他一体です。

つまり霊格の相違も関係ないということであり、神界人の本質も神の存在があり、如来の本質にも同一の神の存在がある。

幽界即霊界即神界即菩薩界即如来界即宇宙界です。

天界・現界・地獄界の全霊人は、一人の例外もなく神の存在において永遠に平等であり、平等である限り永遠に「自他一体」ということです。

これが1点。

二点目は「宇宙即我」であり、宇宙は神が統治しているのであり、その統治されている大宇宙に我々人類のみならず、他の星の神の子達もすべて一人の例外もなく、永遠に支配されている。

この神の統治と支配が理解できず、認識できず、悟り得ず、自我のまま生きれば必然的に自我を標準として神の体(物質)に支配され、世界と人類、宇宙と人類は切断され、我々の星は腐敗していくこととなる。

世界と人類が切断される原因こそが無神論であり、信仰の欠如です。

神への信仰が欠如しているゆえに自己標準で生きる。

自我を標準に生きれば、必然的に神の体の方面の支配を受けて、物質を最上位に置く偶像崇拝となり、世界は腐敗していくことになる。

だったら神を信ずるしかないじゃないか。

神我を強めるしかないじゃないか。

これ以外に何をしろというのだ。

神我を強めれば神の心の方面の支配をうける。

そして様々な導きを受けて世界は、それだけ良化していくこととなる。

極微の人間が自我を強めれば、極大の神の体の方面の支配を受け、極微の神我を強めれば、極大の神の心の方面の支配を受けるのは、永遠に宇宙(神の存在)と人類は一つだからです。

この悟りを「我は神(宇宙)と共に在り」と言われてきました。

極微即極大、ミクロ即マクロ、宇宙即我です。

これが2点目。

3点目は、天地一体です。

物質宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

物質宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次


神の心が「天」であり、神の体は「地」で、永遠に天地一体です。

正義が「天」であり、国益が「地」で、永遠に天地一体です。

神の善が「天」であり、利益が「地」で、永遠に天地一体です。

幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体です。

神の体(物質)と国益、利益と快楽を「天」においている文明ですが、これを大宇宙の構造と仕組み通りに戻していかなければならない。

物質と国益、利益と快楽は、自我であり、否定しろとまでは言わないけれども、すべて相対的なものである限り、有限の範囲でしか神は許容しておられない。

これを最上位においた文明は、偶像崇拝の文明となり、崩壊を余儀なくされるであろう。

今後の文明で同じ間違いを犯してはいけない。

4点目は、主客合一であり、

見られる世界は、見る者の心の世界 : 西田幾多郎

これもあの世とこの世を貫き、一致している法則です。

この世でも見られる全世界は、見る者全人類の心の世界であり、主客は永遠に合一しています。

従って人類の心が腐敗すれば、世界も腐敗し、人類の心が良化すれば、世界も良化する。

何故か?

世界(客観)と心(主観)は一つだからです。

この主客合一の法則は、この世のみならず、あの世のどの霊域にも普遍妥当している法則です。

見られる神界というその世界は、そこに住む神界人の心の世界であり、主客は合一しています。

見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心の世界であり、主客は合一しています。

見られる如来界というその世界は、そこに住む如来の心の世界であり、主客は永遠に合一している。

事物や対象は、人の眺めるその眺め方に従って存在する : オスカー・ワイルド

世界を理性的に見る者、その者にもまた世界は理性的な姿を呈する : ヘーゲル


心の通りの世界となる。

主客合一は、あの世とこの世を貫いている。

あの世とこの世で共通している法則です。

この悟りは、霊天上界と地上界に共通している理法であり、永遠に不変です。

心が悪くなれば世界も悪くなり、心が良くなれば世界も良くなる。

だったら心を磨くしかないじゃないか。

神の心を悟るしかないじゃないか。

これ以外に何をしろというのだ。

しかも自己の心は、唯一あの世に持って帰れるものではないか。

財産も権力も、地位も名誉も、自己の肉体すらあの世に持って帰ることはできない。

しかして自己の心は、あの世にもってかえれる唯一のものではないか。

心こそが天地を貫いている最も大切なものです。

あの世にもってかえれないものを得ようと努力するものをお釈迦様は「盲目の衆生」と呼んだ。

あの世に持って帰れないものを得ようとして、持って帰れる大切な心を失う者をそう呼んだ。

あの世に持って帰れないもののために生きれば、世界は腐敗し、持って帰れるもののために生きた者は世界を良化する。

そんなことは、

世のさま、見りゃわかるであろうがな。

5点目は、一即多、多即一、平等即差別ですが、これも本来はあの世とこの世を貫いています。

この世は、人類の霊的未熟から神の心ではなく、神の体(物質)を基準に天地と上下の方位が定まっている。

神への信仰と悟りによって生命が進化・向上した時、これを原因(神の心)として、結果(神の体)あらわれる物質、すなわち国益と利益、地位と富を基準に天地と上下の方位が決まっているわけです。

つまり「あなたお金もっているから上の人ね、あなたはお金もってないから下の人ね。

あなたは地位があるから上の人ね、地位がないから下の人ね
」などと神の体(国益や富)で上下と天地の方位が決まっています。

相対的なもの、すなわち物質を心の物差しに置いているわけです。

これを宗教的には「偶像崇拝」と言いますが、これは特に中東では禁止してきました。

これは地上のすべての悪の根源だからです。

ギリシャ神話的に言えば、「パンドラの箱」です。

すべての悪が、パンドラの箱から無限に出てきます。

そしてこれがあの世の「天」とこの世の「地」を分けて、この世を不幸にする根源の原因となっている。

物質は天地を分ける最たるものであり、自己の肉体という物質ですらあの世に持って帰れず、天と地がもともと分かれています。

心は天地を永遠に貫いている。

あの世、すなわち霊天上界は、この世のように神の体で天地と上下の方位が定まっているわけではない。

逆です。

霊天上界は、神の体ではなく、神の心を基準に天地と上下の方位が定まっている。

神の心においてのみ天界・現界・地獄界の三千世界の霊人は、完全永遠に「平等」であり、これを悟ることが人類各人の人生の意義となっているが、しかしてこの平等の一つの心(神の心)を知る各人の努力も神は公平に評価されている。

10の善を悟りたる者は10の世界へ、50の善を悟りたる者は50の世界へ、公平に評価されている。

この公平な評価をGLAの高橋信次氏は、

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界etcと説かれた。

この結果だけを見れば「差別」ですが、「平等」の神の心を基準に公平に評価されているわけであるから平等即差別が根本の公理です。

平等の「一」と差別の「多」は分かれていない。

一にして多、多にして一、平等即差別が実在です。

実在の根本的方式は、一にして多、多にして一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである : 西田幾多郎

この世は神の体を基準に天地と上下の方位が決まっているが、あの世は神の心を基準に天地と上下の方位が決まっている。

神の心を基準に天地の方位が決まっている霊天上界は、低い霊域から高い霊域まですべての霊人が、一人残らず幸福であるが、神の体を基準に天地の方位が決まっているこの世は半数以上もの人達が地獄界に堕ちている不幸な世界です。

何が原因でしょう?

すべては心の物差しを神の体という相対的なものに置いている点が原因です。

これがあの世の「天」とこの世の「地」を分けて、この世を不幸にしている。

お釈迦様が全人類幸福化運動というならば、心の物差しを神の心に置くしかないじゃないか。

神の体を心の物差しにおいてこの世が不幸になっているならば、だったら神の心を心とするしかないじゃないか。

それ以外に何をしろというのだ。

ちなみに仏教の世界では仏陀とアラハンは同一の悟りを持っていると言われているわけですが、釈迦は初代であり、特別な存在ですので悟りの実質はアラハンと同じでもアラハンとは呼ばず、釈迦のことを「仏陀」と呼びます。

にも拘らずGLAの高橋信次氏は、アラハンを如来や宇宙界とはせず、神界としたわけです。

これはどうしたことか。

またあのデタラメの高橋仏教が、と言われる向きもおありになろうが、仏教界の方が間違いであり、高橋信次氏の方が正しいのです。

高橋氏は、霊能力で実地にフィールドワークをしていたのです。

2600年前を霊視して、実際の釈迦と釈迦弟子の対話を見て、知っていたし、その釈迦弟子の悟りのレベルも見ていた。

だから『人間・釈迦』を書けたのです。

その2600年前の釈迦弟子の悟りを見れば、お釈迦さまほどの悟りをもっていなかった。

あの世の悟りのレベルでは、神界クラスの悟りしかもっていなかったことを確認しているのです。

釈迦弟子は、あの世の神界クラスの悟りしかもっていなかったのに、そういった者をアラハンと呼んでいるから、ならばアラハンとは神界だという判断なのです。

彼は仏教の知識をもっておらず、仏教界の既成概念に捉われることがなかった人です。

釈迦弟子でもお釈迦さまと同じレベルの悟りをもっていなかった。

だから仏典結集を集団指導体制でやらざるを得なかったのです。

もしアラハンが仏陀と同じ悟りであるならば、単独で仏陀の法を継げたはずなのです。

ところが単独で継げる弟子はいなかったのです。

だから集団指導体制で仏典結集をしたのです。

結局、釈迦弟子でも釈迦が到達した深淵な悟りの領野を理解できる弟子はいなかった。

だから高橋信次氏は、アラハンを神界にしたということです。

余談かもしれませんが、そういうことらしいです。


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2017年03月20日

名は体(たい)をあらわす

神理の記事を書こうと思っていたのですが、海外で森友学園関係の事件が少し詳しく報道されています。

Nippon Kaigi: Empire, Contradiction, and Japan’s Future アジア・パシフィック・ジャーナル

字句通り「日本会議(Nippon Kaigi)」とあり、ニッポン会議と書かれてあるところが笑えます。

この記事では日本会議の思想的基盤は、生長の家と神社本庁であると断言しています。

神社本庁は1946年に組織された行政機関であり、8万の神社を監督している。

現在、日本会議は3万8000人の会員を有し、その月刊誌である「日本の息吹」では、南京大虐殺の論評を歴史的な虚構としてこき下ろすと共に広く取り扱っている。

日本会議会長は、元最高裁判所長官である三好達(みよしとおる)から受け継いだ慶應義塾大学名誉教授の田久保忠衛(たくぼただえ)であり、実際には事務総長の椛島有三(かばしま ゆうぞう)がかじ取りをしている。

その他の重要なメンバーには、ブリジストンタイヤの元社長、保守的な学者や公的な人物、日本医師会会長などが参加している。

ここで動画が入ります。



天皇陛下、バンザーイ

・・・引くわ

ドン引きです。

地球も当然ですが、全宇宙の神の子達は、全て当ブログの言っている「神の心(生命)と神の体(物質)」、すなわち宇宙(神の存在)を中心に永遠に回っているのであって、天皇を中心に回っているわけではない。

なのにこれです。

だから神道カルトと言われる。

一部の霊の支配欲のためにしている。

この動画は、去年の2月11日の建国記念日のことですが、明治神宮会館だそうです。

長い記事ですのですべては訳しませんが、日本会議の思想的基盤が谷口雅春の写真と共に紹介されています。

日本会議は過去の歴史を修正し、憲法を改正することによって過去の栄光を復活させることを目論んでいる。

そのイデオロギーの源が谷口雅春の生長の家だと報道しています。

日本会議の主要人物の多くがここから来ている。

この宗教的組織の創設者である谷口雅春は、国体思想の考えを抱いている。

国体思想とは、神聖な君主としての天皇を崇拝し、国家の中心に据える思想である。

日本を世界の中心と見て、他の人種よりも大和民族は優秀であるとする考えを中心に据える思想である。

この思想は国防の名の下に海外への侵略を正当化する可能性がある。

谷口雅春は戦後の憲法こそが、すべての悪の根源であると宣言した。

そして戦前の明治憲法の復活を求めた。

戦争同調者であった谷口は、1949年に生長の家を再開するまで公職追放されていた、と記載されています。

安倍総理と稲田大臣がツーショットで写っている写真はよく見かけますが、谷口雅春と稲田大臣が同じ記事で掲載されているのは珍しいです。

BBCも扱っています。

A scandal over schools, land and nationalism in Japan BBC

日本における学園スキャンダル、国有地とナショナリズムという記事です。

In Japan, a scandal over a school threatens to entangle Abe ワシントンポスト

日本では学園をめぐるスキャンダルが安倍を脅かす、という記事です。

Nippon Kaigi and Abe's Education Scandal

ここでも「日本会議」が名指しで出ています。

よかったですね、世界中で報道されて、どんなイカレタ団体か。

ほんと有名になっちゃって。

あの世の影で隠れて操り、決して本人は主犯とならないように表舞台には立たず、表面で善のみを語っていたのに写真付きで掲載されています。

その信念と思想の異常さも海外では理解されている。

していないのは日本人だけです。

よく天界に帰天できたものです。

この稲田大臣と生長の家、並びに谷口雅春とは、やはり密接な関係があったようです。

動画はすぐに削除されるでしょうから、はやめに見ておいた方がいい。

稲田大臣と生長の家、並びに日本会議の関係を扱っています。

全部、見る必要はありませんが、10分30秒からです。

「100万円寄付」総理は否定 昭恵夫人が籠池氏妻に驚きメール TV TOKYO

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私は谷口雅春先生の教えを生き方の根本に置いてきた

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谷口雅春先生の教えを根本に置いて、こうなりました。



・・・えぇ、まことにありがたい御教えでございます



今となっては自己紹介。



1991年からこの霊系統が競い立つというか、戦争を売ってきたわけですが、この世で肉をもったのは1997年のようです。

日本会議が組織されたのは1997年ですが、そのかなり前から霊的には集合していました。

とにかく異常な連中なんで、いずれ何か問題を起こすだろうとは思っていました。

日本会議の思想的基盤と源流は生長の家と報道されているわけですから当然、歴史の捏造もこの生長の家の谷口雅春が基点なのでしょう。

この件もいずれ問題視されてくるかもしれません。

公職選挙法違反です。



この稲田大臣ですが、スラップで有名な弁護士のようです。


何か誰かさんとそっくりです。

気に入らないことがあると、すぐ手足をジタバタさせて威圧的な訴訟を起こす幼児性です。

あれだけ「忍辱」の重要性を諸神霊から説かれていたにも関わらず、快不快の自己標準で神理を守れなかった。

当ブログでも、かつて稲田弁護士として扱った裁判の記事を書きました。

南京事件 2

このみどり共同法律事務所の方は、稲田弁護士に9連続勝訴をしている弁護士です。

3件とも最高裁までいき勝訴しています。

1件目は「李秀英名誉毀損裁判」であり、2件目は「南京百人斬り訴訟」、3件目は「夏淑琴名誉毀損訴訟」の3件ですが、これ以外にも大江健三郎氏の沖縄ノートの案件も稲田大臣が担当していたようです。

もちろん稲田弁護士は、ここでも敗訴しています。


判決は知っていましたが、あの沖縄集団自決裁判にまで稲田大臣が関与していたとは知りませんでした。

裁判に勝つとか負けるとかが問題ではなく、相手を威圧し、脅すことが目的のようです。

ありがたい谷口雅春先生の教えです。

谷口の行動も字句通りです。

あの世でも「スラップ(SLAPP)」してます。

この人が弁護していた裁判の案件を見れば、谷口思想の本質が分かります。

南京虐殺はなかった、従軍慰安婦はなかった、百人斬りはなかった、沖縄集団自決はなかった、大救世運動もなかった、尊敬されるという利益と快楽を得るのに都合の悪いものは、「すべてなかった」ことにしたい。

すなわち神の正義のためでも、善のためでもなく、人類の幸福のためでもなく、あくまで正義や善を語るのは、そうすれば人から尊敬され、尊敬されれば、その尊敬する者が自分の思う通りに動き、支配欲を満たすことができる、これが目的です。

そのために善ばかりを言う。

また善の快楽的方面を利用している。

霊性の低い人達は、快楽や利益が悪の根源だと悟れない、その霊的未熟に付け込んでいる。

だからこの霊系統は、常に人の弱みばかり探して、付け込むことを考えている。

そして利益にならないと証拠を隠滅し、何か利益という悪を得んとして行動する時、前もって物的証拠だけは残さないように動く。

しかして物的証拠がなくても怪しい案件はいくらでもあり、この時決まってこう言います。

物的証拠はあるんですか。

確固とした証拠があり、確信をもって言えるんですか。

証拠がないのに非難して、あなた責任を取れるんですか


こういった犯罪者の行動は、常に犯罪を犯す時、それが法に触れることは自分でも分かっており、だから物的証拠がなければ、絶対にばれず、逮捕されることもないと思って行っている。

逆から言えば、物的証拠がなければ、どんな悪事も働いていいと思っている。

その状況が怪しく、ばれそうになると上記のセリフを吐く。

確固とした証拠や物証はあるんですか。

なければ責任を取ってもらいますよ


その悪事の決定的動因となっている動機が、「利益と快楽」であり、これが得られるならば、法を無限に犯す。

こういった根源にあるのは、この世ではなく、実はあの世の神の光が根源の原因です。

神の光が最も快楽があるのです。

快楽と利益という悪の炎に善の快楽的方面の油を注ぎ、悪を燃え上がらせている。

行いはすべて犯罪です。

ところが尊敬されないことをしてきた。

中国に呪いの念波を送ったり、従軍慰安婦や南京虐殺の問題を起こしたり、それを更にごまかしたり、被害者の心情も考えないで歴史を修正せんとして恥じることもない。

共通しているのは、すべて支配欲です。

人を支配するためには、その者から尊敬されなければならない。

尊敬されるためには善ばかり言うしかない。

しかしてもともとが支配欲が目的で善を語っているために、時代によってはその支配欲が露骨に現れる。

支配欲のためにアジアを侵略し、侵略できるうちは快楽があり、従軍慰安婦でも女を犯している内は快楽があり、不快で大嫌いな中国人を南京で殺戮している時にも快楽があり、善のみを語っていれば、霊的に未熟なる者から尊敬され、それもまた快楽がある。

光一元思想とは、快楽一元思想であり、悪一元思想です。

神の光が悪の根源であり、これを範囲を超えて無限化している思想が、光一元思想であり、神の光が悪の根源だと悟っていない思想です。

快楽と利益という悪にのみ飛びつく。

だからアメリカの持つ経済力と軍事力に善悪の判断に関係なくひれ伏す。

非常に危険でしょう、こういった思想は。

森友学園の件は、どうしても関心が持てなかったのですが、これは要は日本会議の「うちゲバ」でしょう。

そのうち連合赤軍のように互いにアイスピックで仲間同士の胸を突き刺しあうのでしょうか。

森友の「森」とは、「モリ」であり、ラテン語で「死」を意味します。

mori(モリ)

意味は「死ぬ」「消滅する」「滅ぶ」「朽ちる」「腐る」「枯れる」といった意味です。

名は体をあらわすと言います。

人や物の名前は、それが有している本質を言い表している場合が多い。

森友とは、モリ・友であり、「トモダチ同士、死になさい」という意味に取れます。

まさに日本会議同士、トモダチ同士の内ゲバです。

そう言えば東京五輪を主導していた人も「モリ」何とかという人でしたね。



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