2017年05月12日

菩薩の悟り 2

神界と菩薩界の悟りの相違が理解できなければ適切な段階を踏んで霊的向上はできない。

神界とは専門的な知識を極め、自力で悟り、反省している善意の人達が帰天する世界です。

まだこの神界ではいい意味での自我を残しており、あくまで自力で悟ろうとする。

その中でも善意の動機をもって修行をしている人達であり、社会の役に立つ人間になろうと思って修行している世界です。

専門的な知識を有している点が、この世界の住人の共通した特徴であり、この段階を踏まずに菩薩にはなれない。

例えば医者ですが、霊界や幽界の人達ではまず手術ができない。

ここに盲腸の人がいるとして、医学の専門的知識をもっていない人が、盲腸の手術ができるでしょうか。

一般人では、開腹して、盲腸の位置を見つけ、それを切り取り、適切に手術することができるかと言えば、できません。

専門的な知識をもっていなければ、まず手術ができない。

黙って病人が死んでいく様を見ているしかなくなります。

手術ができるのは専門的な知識を獲得しているからです。

学問でも同じであり、小学校で勉強を教えるには教えるだけの知識を先生が有していなければ、まず小学生に学問を教えることはできません。

それができるのは専門的な知識をある程度、自力的に獲得しているからです。

手術できる人、子供達に勉強を教えることができる人、芸術を教え、経営を教え、哲学を教え、音楽を教えることができる人が、この神界に帰天します。

この神界は人生80年以内で努力すれば、100人が100人誰でも到達できる世界であると教えられてきたはずです。

努力次第で誰でも行ける世界です。

菩薩の悟りは1回の人生では得られません。

神界人が菩薩になるには300年に1回生まれるとして、どのような優秀な人でも1200年はかかると諸神霊も言っていました。

3回の人生を連続で神界の悟りを得て、4回目から菩薩になれる、と。

しかして3回連続で神界の悟りを得ることも、また通常は難しい。

だから霊界人口500億人のうち、菩薩はわずか2万人程度しかいない。

菩薩の悟りは、それほど安っぽくはないということですね。

神界は80年以内で誰でもいくことができる世界です。

芸術家でも経営者でも科学者でも、専門的な知識を極め、また善意の学者や科学者、芸術家や医者、政治家や音楽家等々、とにかく神界ではある任意の分野において、この専門的な知識を獲得しており、また善意の動機をもって人を導ける悟りを持っている人達です。

これが神界人です。

誰だったか諸神霊が、現代はこの世で学問が発達しているために、幽界・霊界に帰天するより、この神界に帰天する人が増えていると言っていました。

学問の発達のおかげであの世でも神界への入り口が増えている。

これは言うまでもなくソクラテスの功績です。

この世で今のような学問を創始したのはソクラテスですからね。

神の心とひとこと言っても雲を掴むような話であり、それだけならば神の心とは抽象的なものに終始する。

その一見、抽象的とも見える神の心を、普遍的な価値や思想として具体化していかなければならない。

これが学問ですが、これを明確に意図していたのがソクラテスです。

だから学問の中心には、いつでも神理が在る。

神界への入り口が、非常に増えているということは、幽界・霊界の霊人達の多くが神界に霊的な進化を遂げているということであり、これはまさにソクラテスの業績と言っていいでしょう。

人類を霊的に進化させてきたわけです。

宗教を作って、そこの弟子を何名か教えて神界にまで導くよりも遥かに効率がいいです。

学問を通して世界的に進化させているわけです。

だからソクラテスは偉大なのです。

神界の悟りの特徴は、この専門的な知識と善意が必須ですが、これは要は自力が原則であるということです。

誰も身代わりで勉強などしてくれませんし、自己の罪を身代わりで誰も反省してくれません。

正法は自力です。

しかして神界は、返す刀でこの自力がそのまま限界となっています。

自力門の禅の坊主が言う自力は、我力行ではなく、生命の本質に在る神の力こそが、本当の自分の力であるという意味で自力と言い、みずからこれを掴まんとし、悟らんとします。

禅でいう自力は、我力行でも自我力行でもありません。

この意味での自力ではなく、神界の自力は我力行や自我力行という意味での自力です。

そして自我力行では、限界にぶつかり、これが神界人の悟りの限界となっています。

自我はどう発達させても限界があるということです。

自我は知識・思考・概念・認識・情操みな相対的であり、Aに対するBがあり、Bに対するAがある。

70億人みな異なる個性をもっている。

相対的とは物質的ということであり、自我も相対的、物質も相対的です。

だから物質と同様、自我にはそれだけですと限界がある。

殺す者と殺される者、殴る者と殴られる者、差別する者と差別される者、自我の相対性は、これだけですと両者二つの平行線は永遠に交わらず、社会に無限の矛盾と対立を現象化していきます。

神界の人は、まだこの限界から抜けられない。

この限界から抜けられないとは、神への信仰の意味をまだ悟っていないということです。

なんで、神を信じなきゃ、いけねぇんだよ」と思っており、なぜ神を信じなければならないのかを悟っていないのです。

自我は知識・思考・概念・認識・情操みな相対的ですから、これだけですと殴った者と殴られた者、犯す者と犯される者との相対性から抜けられず、二つの平行線は交わらず、世界は矛盾と対立から抜けられず、自我の相対性から世界の救済や幸福はないという結論になります。

だから菩薩は、この自我の相対性を超越している神我、いわゆる神の心を心とせんとします。

実際、神の心を心とせんとし、神の心を心の物差しと実際、現実できるのは、この菩薩界からです。

彼らはみな知っているのです。

信仰なく人類が自我のままに生きた時、その自我の相対性が作り上げる社会の矛盾と対立、不幸と不和からは逃れられず、また善を心に描いても自我だけならば、決して永遠に人類の幸福も救済もない事実を彼らはその固有の人生から悟っている。

だから菩薩は神の心を心とせんとする。

ここにしか平行線を超える道はないからです。

ないということは自我そのままの状態で生きるということであり、自我の相対性が生み出す、矛盾と対立を超越できず、できないということは、たとえ善や正義を旨としても、その自我の相対性から人類の救済や幸福もないということです。

自我の相対性が、我々の社会の矛盾、すなわち殺す者と殺される者、殴る者と殴られる者、犯す者と犯される者、差別する者と差別される者等々、矛盾を無限に現象化していくことになる。

そしてもし神が存在しないというならば、この矛盾からは永遠に人類は逃れられず、またこの矛盾が生み出す二つの平行線は永遠に交わらない。

人間自我は、その相対性が本性だからです。

人類の救済や幸福は、善を旨としても永遠に不可能。

だから菩薩は自我の上位、相対性の上位にある絶対的な心、すなわち神の心を心とせんとする。

神界の悟りと菩薩の悟りとを分けている決定的なものは、すなわち「信仰」である。

神界人は、まだどうして神を信じなければならないのかを自力で悟れておらず、菩薩はこれを自己の固有の人生から自力で悟っている。

これが神界人と菩薩との悟りの決定的相違です。

神界人は、まだ自分が努力して悟ろうとするのですね。

これは大川さんのところで道元も言っていました。

・・えぇ、でも努力しなければ悟れないんじゃないんですか

おい、道元よ、と。

それが神界の悟りなんだ。

菩薩さんは、そんなこと考えちゃいないんだ。

自分の努力で悟ろうなんて考えていないんだ。

この身、この心をどう神の心のために使っていくかしか考えちゃいないんだ


・・えぇぇ、でも努力しなきゃ悟れないんじゃないんですか?

おい、道元よ、と。

それが神界の悟りなんだ。

その努力も所詮、自我の努力なんだ。

何万冊書物を読もうが、悟れるものではない。

俺は何万冊本を読んだから、一冊も本を読んでいないお前より悟ってるんだ、とか言い始めるんだ。

その自我の努力は相対的なものであり、それだけならば社会の矛盾と対立から逃れることはできんぞ。

人類の救済と幸福はなくなるんだぞ。

自我の努力は有限であり、自我で無限数の人間を救ったり、幸福にしたりすることはできない。

そんなこっちゃ偉い菩薩さんには、なれんぞ


なんて偉い人から言われて、自分の修行の在り方を見直したと言っていました。

それで今では道元さんも菩薩界に見事上がられているようです。

菩薩が神の心を心とせんとするのは、信仰の意味を知っているからです。

どれだけお偉い人かは知りませんが、自我は知識・思考・概念・認識・情操みな永遠に相対的であり、これだけならば、その自我の必然的性質から人類の救済や幸福はないのです。

もし人類の救済や幸福が在るとすれば、それは自我の相対性を超えた性質を有する絶対的な存在、我々の中に在って自他を結びつけ、個性の奥に存在する神の心に向かう道しかない。

この道以外に人類の幸福と救済の道はないということです。

我々人類に選択の余地はない。

これ以外にないということです。

何故ならば我々人類は個性の相違はあれど、みな一人の例外もなくその性質は永遠に相対的だからです。

その相対性ゆえに、これのみならば人類の幸福も救済もない。

だったら神を信ずるしかないじゃないか。

神に向かうしかないじゃないか。

神の心を悟るしかないじゃないか。

これ以外に何をしろというのだ。

神界クラスですとまだ「信仰」の意味を知らず、菩薩になって初めて「信仰」の意味を知ります。

菩薩の本質的な悟りの特徴は、この「信仰」にあるということです。

ただ菩薩は、「信仰」の大切さを悟ってはいるのですが、その信じている神の心が如来ほど十分には分からないのですね。

こういった違いはあります。

この題はまだ続きます。


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