2017年05月18日

菩薩の悟り 3

すべての善の源は「神の心(生命)」であり、すべての悪の源は「神の体(物質)」である。

すべての悪の源である「神の体(物質)」は、すべての善の源である「神の心(生命)」の表現体、善悪不二であり、大宇宙(神の存在)は、神の一大倫理表現である。

すべての善を知るとは「神の心」を知るということであり、すべての悪を知るとは「神の体」を知るということである。

すべての善を知り、すべての悪を知るとは大宇宙(神の存在)を知るということであり、真正の自己を知るとは、大宇宙を知るということである。

今後の歴史は、神の如く善悪を知らん人間の創造の歴史となる。

ゼウス神主導のマリンブルーは今後、神の心と神の体、生命と物質、すなわち大宇宙(神の存在)そのものの探究に入る。

大宇宙の探究とは、すなわち神理の探究ということです。

歴史と共に神の善悪と御心は正確さを増していくであろう。

現時点で読み取れない神の御心も未来では読み取られていくであろう。

人類の霊的進化は、神の心の解明によって促進されていくであろう。

自己の生命の中にも神の存在はあり、他者の生命の中にも神の存在はある。

大如来の生命の本質にも神の存在はあり、大魔王の生命の本質にも同一の神の存在は在る。

大魔王即大如来であり、神故に天界・現界・地獄界の三千世界の住人は、永遠に平等であり、自他一体である。

自己の生命の本質である「神の心」が、自己を直に客体化した世界が眼前の大宇宙である。

自己を知るとは大宇宙を知るということであり、大宇宙を知るとは、神の如く善悪を知るということだ。

この自他一体の神の存在、いわゆる大宇宙の絶対的権威、つまり神の権威を確立する道が三千世界の改造の道である。

具体的には、民主主義の進化理論「神約民主論」を通して、この大宇宙の絶対的権威を確立していくこと。

これが救世の法の柱の一つである。

神において人類は、永遠に一つであるということだ。

この一つの存在の権威を確立するだけで、まず政治が変わり、経済も変わる、教育も変わり、法律も変わる、科学も変わり、学問も変わる、医学も変わり、宗教すら変わる。

外界のすべてが変わる。

心が変わるために動植物の生態系まで変わり、大地と海、大気と虫けらまで変わる。

庭先にいる蟻んこ一匹までも救う法、これを「救世の法」と言う。

人類の価値観、人生観、世界観、そのすべての内面も変わり、外面も変わる。

そして神の意図通り変わったこの世の仏国土を通して、次に地獄界の在り方が根源から変わり、霊天上界の在り方も根源から変わる。

地獄界に堕ちる者が激減し、たとえ堕ちたとしても早急に抜けられるために地獄界の在り方が根源から変わります。

また低い霊域では、まだ哲学や世界の仕組み、宗教や神の心はよく分かっていないわけであるが、この世の仏国土を通して、それを学んであの世に帰天するわけであるから、霊天上界を飛躍的に進化させていく。

神において三千世界の霊人は永遠に一つであるが、この一つの権威を確立するだけで天界・現界・地獄界の三千世界のすべてが根源から変わることになる。

これを具体的に実現していく政治体制が「神約民主論」ということです。

一つの権威とは、神の権威であり、この確立が三千世界の根源的改造の神理です。

「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」: ヨハネの黙示録21-5

こうしてヨハネの黙示録の預言は成就していくことになる。

一つの神の権威の確立、それだけで天界・現界・地獄界の三千世界のすべてが新たになる。

神において人類は永遠に一つであり、この一つの神の権威を正当に実現していくだけですべてが変わるということです。

ゼウス神主導で他の諸神霊のご協力を得ながら実現していく救世の法の一つがこの「三千世界の根源的改造」です。

今一つは、高橋信次ー大川隆法ラインで意図していた「仏陀の大法」、この二つが今回の救世の法の核です。

仏陀の大法」もそれは凄い法ですが、本人がビジネスやっとるから。

仏陀の大法」は、霊格にあぐらをかいているようでは悟れない。

偉大な方であることは知っておりますけれども、求道心を最大限に研ぎ澄まして努力しなければ、あの高度な「仏陀の大法」は悟れない。

私でもまだ60%ぐらいしか理解していない。

神理の道は、けわしく、遠い。

菩薩の悟りは、自他一体を十分悟れておらず、だからこそそれがそのまま宇宙即我を悟れず、同時に天地一体を悟れない原因になっている。

矛盾と対立の抜け方に限界があるのです。

如来は原則、矛盾と対立を無限に抜けられますが、菩薩は良くても有限の範囲でしか抜けられない。

この地球では、大雑把に言って政治体制は2種類あり、一つは民主主義、二つ目は社会主義、この二つがあります。

これはどちらも菩薩が作った政治体制であり、菩薩は方便の善しか説けませんので具体的に菩薩の悟りの限界がでた政治体制になっています。

民主主義も社会主義も、すなわち方便の善です。

本来、無限化していいものではない。

それを無限化しているから世界は腐敗しているとも言える。

神への信仰と悟りによって国民各個人が霊的に進化向上した時、これを原因(神の心)として結果(神の体)あらわれる利益が民衆のためという「結果(物質・神の体)」です。

民衆のためという結果に比喩した善、利益に比喩した善、すなわち民主主義は方便の善です。

人類各個人の霊的進化もなく、向上もないのに民衆のためという結果などあらわれようがない。

霊的に進化向上した時、これを原因としてあらわれる物質を御利益と言いますが、この物質が政治体制の本質となっている。

だから民主主義の本質は、誰でも言論の自由が欲しい、誰でも不当な権力で身体を拘束されたくない、誰でも表現の自由が欲しいという、この「誰でも」という人民共通の利益に基づいた国家契約となっています。

物質宇宙は神の表現体であり、神の体です。

宇宙も自然界もその本質は永遠に「神の心」なわけですが、我々の文明の本質は「神の体」、すなわち「利益」になっており、自然界の本質と文明の本質が分かれているわけです。

宇宙と文明、自然界と文明がその根源から分離している。

すなわち宇宙即我、自然即我ではない。

両者が分離しているのです。

これが菩薩の悟りなのです。

菩薩の悟りは、このように宇宙と文明、自然界と文明が分かれている悟りを説くのです。

もちろん菩薩ですから悪気はないのですが、悲しいかなこれが霊格と言われる神の評価であり、この宇宙と文明、自然界と文明が分離した悟りは、神の心から少し遠いわけです。

だから菩薩界は如来界より下に置かれている。

社会主義も唯物論と言われ、単なるタダ物論ではありませんけれども、やはり物質に比喩した善、自我に比喩した善、つまり方便になっている。

マルクスも菩薩です。

しかして自然界は永遠に神の心がその本質にありますので唯物論、物質を政治体制の根底に置きますと、やはり自然界と分離した文明となるのですね。

民主主義の本質は「利益」ですが、自然界の本質は「神の心」です。

社会主義の本質は「物質」ですが、自然界の本質は永遠に「神の心」です。

民主主義と自然界、社会主義と自然界、人間と神が、その本質で分かれているのです。

宇宙即我ではないわけです。

菩薩が宇宙即我を悟れていないというのは、こういう意味です。

方便の善だけならば、神と人類、大宇宙と人類、自然界と人類が分かれてしまい、神と切られた文明になります。

すると我々とその文明は悪となる。

民主主義も利益を中核に置いておりますので神の体を「」に置いている。

社会主義も同様に物質という神の体を「」に置いているわけです。

物質宇宙は神の表現体であり、神の体です。

この大宇宙では永遠に神の心が「」であり、神の体は「」なのです。

この「」である物質と利益を「」に置いているわけです。

故に本来、民主主義も社会主義も神御自身の目から見ますと許されない政治体制なのです。

有限の範囲でやっている分には悪とはならないわけですが、科学の方が発達しており、地球単位になって方便の善も無限化してしまっている。

宇宙即我を悟れていないということは、同時に天地一体も悟れていないという事実は分かると思う。

自我に比喩した善、利益に比喩した善、物質に比喩した善、すなわち方便の善は、どうしても利益と物質を中心に置いて自然界と分離してしまい、同時にそれが天地一体の構造と仕組みに反するものになってしまう。

ただ悪気はなくとも人類に物質や利益を拝ませますと、世界は必ず腐敗していきます。

悟り不足が、世界の腐敗と直結している。

だから今回は菩薩が全面に出てきてはいけないわけですね。

如来の法を全面に出していかなければならない。

民主主義や社会主義を見れば分かるように、どうしても菩薩の悟りは天地を切り、宇宙と我、自然界と我を分離してしまうのです。

これが宇宙即我と天地一体を悟りたる如来とそうでない菩薩の悟りの決定的な差であるということです。

神約民主論」は、宇宙即我の政治体制であり、文明の本質にも人生の意義としての「神の存在」を置いておりますので自然界の本質と一致してます。(宇宙即我・自然即我

人生の意義」が政治体制の本質ですから、「人生の意義」である神の存在が「」に置かれ、自然界の本質とも一致してくるわけです。(天地一体

人民共通の利益に基づいた国家契約」である民主主義から「人民共通の人生の意義に基づいた国家契約」である神約民主論国家の実現が、仏国土顕現ということです。

物質と利益を「」に置くとは、相対的なものを絶対化しておりますので「神への傲慢」と言えます。

しかしてこの傲慢も、悪意の傲慢ではなく、善意の傲慢、すなわち悟り不足から生じている傲慢です。

菩薩の悟りには、その方便の善しか悟れない善意の傲慢があり、だからこそ本来は無限化していい悟りではないわけですね。

悪意の傲慢であろうが、善意の傲慢であろうが、どちらにしろ神の体を最上位に置いている点に相違ありませんから、それだけですとどうしても世界の構造と仕組みと反しておりますので世界は腐敗せざるを得なくなる。

物質宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

永遠に神の心が「」であり、神の体は「」で天地一体です。

生命が「」であり、物質は「」で天地一体です。

この大宇宙の構造と仕組み通りの文明を創造していかなければならないわけです。

これを仏国土と言う。

この題は、恐らくもう一回続きます。


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