2016年12月13日

アンタッチャブル 3

GLAの高橋信次氏から開始された今回の大救世運動ですが、GLAでは多次元世界という「あの世の存在」、輪廻転生というあの世とこの世を生命は永遠に循環していく霊的修行の「システムの存在」を明らかにしました。

この時、足らざる点が、もしあるとしたら神の体(結果・物質)で多次元世界と輪廻転生を証明しようとした点が挙げられます。

神を信じて生命が進化・向上すれば、これを原因として結果(神の体)、霊格が上がり、霊格が上るほどの悟りを得れば、それが結果(神の体・物質)有名な過去世ともなる。

この有名な過去世と霊格、この共に結果、すなわち神の体(物質)で多次元世界と輪廻転生を証明しようとしました。

多次元世界は悪霊の霊道現象や守護霊との対話によって、輪廻転生は過去世の言葉を語ることによってそれぞれ証明しようとした。

ところがこれは霊能力で証明せんとしていたため、第三者が確認も検証もできず、それは信ずるしかないものでした。

それでもそれを万人にゴリ押しして信じさせようとすれば、傲慢なものになります。

第三者が確認も検証もできないものを信じさせようとするわけですから、下手をすれば盲信と狂信の温床となりますし、よく分かってないのに信じさせますと、それがその者の霊的な進化と悟りに問題が出てきます。

これが霊格や過去世という結果、すなわち物質で証明せんとして生じる限界(有限性)です。

すなわち物質に比喩した善、結果に比喩した善、すなわち有限の善の限界性です。

これだけですと方便の神理となり、救世の法とは言えなくなります。

足らざる点とは、すなわち霊格や過去世、この結果(神の体)だけで多次元世界と輪廻転生を証明するのではなく、神の心、つまり神の法そのもので説いていく必要があります。

これが「法の編纂」であり、釈迦のもっていた文証です。

GLAでは神の体(結果)の方面で証明せんとしていたわけですが、神の体ではなく、神の心で多次元世界と輪廻転生を説いていかなければならない。

多次元世界の存在の意味は3点あります。

1点目は多次元世界が存在するということは、人間は永遠の生命を生きているということです。

80年で人生は無にはならないということですね。

無となる人生観の原因は肉体観です。

人間とは生命なのか、肉体なのかという問題であり、人間とは肉体であると定義するならば、肉体は物質であり、有限ですから、80年で死をむかえ、土に帰り、無となります。

この場合、カントが言うようにこの世で正義や善が目的とはならず、そもそも成立しない。

無になるわけですから、善や正義を求めたとて、それも無になる。

肉体という有限の人生観の通り、有限なるもの、すなわち国益や利益、快楽と自我を中心に生きればいい。

エゴイストだの何だの道徳的に他者から非難されても、その非難する者もまた無になるのであるから非難は無効であり、自己の利益だけを考えた人生観を生きればいい。

そしてその利益と国益の相対性から世界は無限に腐っていく。

この場合、カントがいうようにこの世で道徳は成立しない。

だからカントは実践理性批判において神の存在と霊の不死を、道徳上から必然的なるものとして要請した。

これがカントの「道徳的証明」です。

あの世ではなく、この世で正義と善を重んじるのであるならば、死んで無となる人生観や神の存在を認めない人生観は取れないということです。

カントはこの世で正義や善が成立するためには、神の存在と霊の不死は必然的なるものとして要請されると言いました。

そしてその霊の不死を具体的に霊道現象として証明せんとした人が高橋信次氏時代のGLAですね。

多次元世界があるということは、あの世があるということであり、あの世があるということはカントが述べた通り、人間は永遠に生きていくということです。

ならば人間とは何かの答えがでるわけです。

人間は肉体であると定義しますとその物質観から有限となり、有限と相対的なもの、すなわち物質的なものを目的として生きることになります。

実際、多くがそう生きています。

自我、利益、国益、快楽、欲望、権力等々、この相対的なものを目的とする人生観となり、世界は腐敗せざるを得なくなる。

しかして多次元世界が存在するということは当然、こういった肉体観に基礎を置く人生観は取れない。

多次元世界があるということは、あの世があるということであり、あの世の霊人は肉体がありませんので、人間の定義は永遠を生きる霊的人生観が基本となる。

人間とは肉体ではなく、生命であるということですね。

肉体は80年で死んで土に帰り、あの世にもっていくことはできない。

人間とは肉体であるという物質観はあの世とこの世を切る天地分離の人生観です。

人間とは生命であると定義すれば、その生命はこの世でも生きて修行をするが、その修行をして作った自己の生命はそのままあの世に持って帰ることができる。

すなわち人間とは生命であるという人生観は、天地一体の道です。

この世の人間が目的としている富や国益、地位や名誉、学歴や肉体はあの世に持って帰れない天地分離の道なのです。

富や地位ぐらい持って帰れなくてもいいけれども、それにあまりに執着し過ぎて、生命そのものまで霊天上界に持って帰れなくなった人もいるのです。

この世の人間はそれを評価するけれども、あの世では全く通用しない。

あの世、つまり多次元世界の存在は、それ自身人間を肉体であると定義する人生観・価値観・世界観を許さないということです。

多次元世界が存在するということは、人間は肉体ではなく、生命であり、永遠に生きる霊的存在だということです。

これが一点。

二点目は永遠に生きる存在が人間・神の子であることは分かった。

しかして永遠に遊ぶために生かしているわけではありませんので、神は何か永遠の目的を等しく与えたはずです。

これが神の心です。

多次元世界が存在するということは、ここに永遠の目的が存在するということであり、これが二点目です。

この目的を「幸福」と言います。

神の心を悟らないということは、霊的に未熟な状態に置かれているということです。

そしてその霊的未熟がすべての不幸の原因です。

霊的未熟が戦争を生み、飢餓を生み、死刑制度を生み、暴力を生み、地獄界を生んでいます。

成熟したる者が、戦争や暴力、死刑制度や人種差別をするわけありません。

神の心を悟らないのは勝手ではないのです。

悟らなければ、我々は永遠に戦争や飢餓、暴力や地獄、人種差別や対立からは逃れられないのです。

想定せよ。

もし仮に全人類70億人が一人残らずすべてソクラテスであった場合、そこに地獄はあるでしょうか?

ソクラテスが地獄に堕ちますか?

そこに戦争があるでしょうか?

そこに人種差別があるでしょうか?

ソクラテスが地獄に堕ちたり、人種差別をしたり、不当な理由で戦争をしたり、利益や国益を目的としたり、暴力を振るったりするでしょうか。

しません。

ならば現代の世界は、何故戦争とテロに満ち、人種差別や障害者差別をし、暴力を振るい、地獄に堕ちる者が多いのでしょう。

70億の人類が悉くソクラテスである世界とそうでない現代世界とを画然と分けている決定的な要因とは何でしょう。

これが悟りによる霊的成熟と未熟です。

人類がすべてソクラテスであった場合、戦争も地獄も人種差別も暴力もないけれども、すべてがソクラテスでない世界では、その不幸がある。

ならば仏陀が意図しておられた幸福化運動とは、悟りによる霊的進化と成熟の道と言えます。

そしてこの宇宙論では成熟とは、神の心を悟ることを言いますから、神の心を悟らずして人類の幸福はないということです。

だから多次元世界は、実はこの世も本来はそうなのですが、神の心が永遠の目的となっている。

多次元世界が存在しているということは、永遠の目的としての神の存在があるということです。

これが二点目。

三点目は多次元世界の存在が、その永遠の目的として「神の存在」を置いているということは、その永遠の目的としての神の心によってすべての人類は公平にその生命価値が計られているということです。

10の善を悟りたる者は10の世界へ、100の善を悟りたる者は100の世界へ、1000の善を悟りたる者は1000の世界へ、神の心を基準に公平に計られている。

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界etc・・を霊的カーストと捉える方がいますが、万人の神に向かう努力は千差万別であり、人類に均一な努力はない。

みな努力の質は個性と同様みな違います。

しかして万人はその一つの心、平等な神の心によってすべて公平に生命価値がはかられています。

それをはかれば結果、幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界となっているに過ぎない。

10の努力をしてきた者と100の努力をしてきた者を平等に扱い、同じ世界に帰天させてはいない。

それは不公平です。

この世はあの世、つまり多次元世界と逆の世界です。

多次元世界は神の心を基準にはかられているけれども、この世は神の体(物質)によってはかられています。

神を信じて生命が進化向上すれば、これを原因(神の心)として結果(神の体)あらわれる国益、利益、快楽等々、神の体が基準になっています。

地位があれば上、なければ下、富があれば上、なければ下といったように地位や富、国益や利益といった神の体を基準とした上下の方位となっている。

多次元世界の上下は、この世のように神の体を基準にしているのではなく、神の心が基準です。

神の心を基準とした上下と天地の方位に入っている。

この世の人間は大抵入っていない。

多次元世界の上下の方位は神の心、この世の上下の方位は神の体で決まっている。

あの世とこの世が逆なのですね。

神の体(物質)を基準に生きることによってあの世の「天」とこの世の「地」が分離している。

多次元世界は永遠に神の心が基準となっているわけですが、この世は人類の未熟から神の体を基準としています。

神の体を基準に生きているということは、すなわち「偶像崇拝」をしているということです。

これによって天地が分離しています。

これが地獄界増加の一因のひとつです。

これをすべて地球ごと天地一体の理法に戻していかなければならないわけです。

多次元世界が存在するということは、人間存在を根源的に生命であると定義づけているということです。

永遠の生命体が人間であると定義づけている存在が多次元世界であるということ、これが一点。

二点目は永遠の生命観には永遠の目的があり、それが神の存在であるということ、これが二点目。

三点目は神の心が目的であるということは、神の心にてすべては永遠に公平な評価にさらされており、それゆえに霊界人口500億とも言われておりますが、一人の例外もなく幸福であるということ、これが三点目。

霊格とは神の心を基準とした公平な評価のことであり、この評価を否定すれば現代世界のように神の体を基準とした評価となり、無間地獄の因となる。

ただ霊格というあの世の地位のようなもので多次元世界の全体を証明せんとすれば、どうしても限界が出てきます。

やはり「法の編纂」が重要であり、霊格や過去世と言った神の体(結果)によって証明するよりも神の心(原因)から証明していった方が誤解が少ないように思います。

これが多次元世界の存在意義です。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理
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