2016年12月17日

宇宙と歴史

宗教では、よく生き神信仰や個人崇拝が見られるわけですが、これは宇宙と歴史の正体を知らない無知な教祖が、傲慢から行う信仰であり、明らかに間違っています。

人間を信仰の対象としてみたり、崇拝の対象化したり、生き神信仰を実行せんとすれば、その教祖は道をそれたか魔に入られたのです。

神とは完全な正義です。

歴史上では神の完全性を悟り、その御心が見えていたと思われる思想家や宗教家は一部おりましたが、彼らが一様に理解していたのは、神の完全性は見えるし、分かる。

しかしてその完全な正義は説き得ない、この一点は必ず悟っております。

神が完全だというのは分かるのです。

神の完全性は分かるし、見えるのだけれども、見えていながらその神の完全な正義はとても人間如きでは説き得るものではないという点は必ず悟っております。

かつてエマソンは『自然』という著書の中で「自然は完全である」と述べられました。

完全は見えているのです。

しかしてその完全な正義をエマソン自身が、説き得たかと言えば、実は説き得ないのです。

一般の認識では、これを矛盾と捉える人もいます。

完全が見えていながら、完全な正義を説き得ないとは矛盾ではないかと言うのです。

完全が見えるのならば、説けるはずだと思うわけです。

その方は神の完全性が見えていないからそう言うわけです。

見えていれば、エマソンのような表現になる理由が理解できます。

一見すれば矛盾しているように見えますが、実は全然矛盾していないのです。

そうとしか表現しようのない心なのです。

人間の肉体の寿命や認識のキャパシティから、例え神の完全性が心の目で見えていたとしてもそれを完全に表現しうる人間は永遠におりません。

人間を通して出てくる善は、すべて神の近似値に過ぎない。: エマソン

かつてGLAを主宰されていた高橋信次氏と言われる方がおりました。

彼は「人間は所詮、神にはなりえません」と遺されておりますが、神は完全な正義です。

完全な正義を説きうる人は過去・現在・未来を通して今後も一人もおりません。

今後、如何なる救世主と言われる人が生まれようとも聖人と言われる人が生存しようとも何人も神の完全な正義は説けないのです。

過去の聖人や偉人、救世主や天才を見ましても誰一人完全な正義は説いておりません。

肉体を持って生きていく人間では、完全な正義を説く能力は歴史論から言っても、元々もたされていないのです。

完全な正義を説けないと言うことは、「人間は所詮、神にはなりえない」と言うことです。

人間では所詮、完全な正義を説き得ないと言うことです。

では完全な正義が、存在しないのかと言われれば、そうではありません。

完全な正義の実在は分かるのです。

西田幾多郎博士もヘーゲルもエマソンも高橋信次氏もこの点は悟っておりました。

完全な正義の実在を悟っていたと言うことは、不完全は我々の永遠の「人生の目的」とはなりませんから人生の目的を悟っていたと言うことです。

人生の意義と目的を説けるものを神理と言うのです。

神理以外の目的は、例えば出世や所得の増加、国益の増大や利益といった相対的のものとなり、方便の域を出ない目的となり、世界腐敗と直結してくる目的とならざるを得なくなります。

永遠にして完全、普遍的にして絶対的な人生の意義や目的を説きうるものを神理を説くと言います。

これは絶対的な心、すなわち神の御心を悟っていなければ、説くことが不可能な心と言えます。

ではこの「完全な正義」とは何か?

これを説明するには紙幅の関係上、元々不可能ですがあえて分かりやすく述べるとしたならば、かつて当サイトでも扱ったカントの「道徳的証明」を例に取れば分かりやすいかもしれません。

カントは道徳的証明においてこの世で善悪が成立するためには、神の存在と霊の不死は必然的に要請されると言いました。

死イコール無の等式からは、この世で善悪が成立しない。

まさに善をなすべし、という道徳的命令を下すことができない。

死んで無になる有限の人生観では、この世の善悪が説明できない。

有限は物質を意味しているため、この価値観では物質が意味する利益と国益という相対的な価値以外に目的の対象とはならない。

利益と国益は対立と相対性を意味している価値であるため、これはエゴイズムの温床となっている価値である。

生涯、利益と国益を求め、追求し、エゴイストと他者から非難されても、その非難する者もまた無になるのであるから非難は無効である。

やはり生涯、利益と国益を目的とした生き方が良いのだといった人生観にならざるを得なくなります。

利益や国益といった相対的な価値、またこのエゴイズムと共に我々の世界で倫理は成立しないため、この世で善悪が成立するためには、どうしても永遠の人生観、すなわち霊の不死がこの世の善悪から必然的に要請される。

しかして永遠に目的なく生きるだけでも、この世で善悪は成立しない。

永遠の目的としての最高善、すなわち神の存在を必要とする。

人生80年では最高善たる完全な正義、神の完全なる御心は何人も悟り得ない。

これを悟るためには、我々は「永遠」を必要とする。

カントの言った最高善こそが、ヘーゲルの言っていた絶対精神、宗教で言うところの神の御心である。

カントの言う最高善これ自身は人間では認識できないと言い、西田哲学では、直覚しうるし、せねばならぬと命じ、高橋教祖は「人間は所詮、神にはなりえない」と言いました。

カントの時代では最高善や霊の不死を、未だこの世ならざる形而上においていた形跡があるわけですが、ヘーゲルの時代になりますとこれを形而下に置きました。

すなわち人間には認識できない最高善、ヘーゲル哲学で述べられている絶対精神、神の心そのものを形而上から形而下に置いて哲学を構築したのがヘーゲルです。

絶対精神(神の心)に具体的に向かう場所こそが「現実の歴史」であると言ったのです。

つまり最高善、80年ほどしか生きない人間では認識不可能な絶対精神、神の御心そのものを現実的なものにしたのがヘーゲルの歴史哲学です。

神の御心をカント哲学では形而上に置いていたのですが、これをヘーゲルは形而下に置いて現実化したのです。

最高善にして絶対精神、神の完全なる正義を現実的なもの、すなわち歴史の場に設定し、これを歴史の究極目的としたのがヘーゲルです。

すべての思想は、世界の運動法則としての正・反・合の弁証法にかけられながら、保存・否定・揚棄を繰り返しつつ、一歩一歩人類はこの絶対精神に向かっているのである。

ギリシャ哲学の正があり、キリスト教の反がある。

次に合としての新たな思想が出てくる。

儒教の正があり、仏教の反がある。

次に合の新たな思想が出てきて次なる高度な思想へと揚棄されていく。

その向かうべき究極を絶対精神(神)と言いました。

各時代、各地域に出現してくる相対善は絶対精神に至る諸段階の善である。

その歴史の全貌を「自由の意識の進歩」と言い、神理による自由の意識の進歩と主張した。

歴史とは神の世界計画そのものである、と。

形而上に置かれていた神の絶対善を歴史という現実的な形而下に置き、これを歴史の究極目的としました。

しかして絶対精神は神そのものであるから人間にこの認識は不可能です。

ただその時代、時代において最高の精神を体現し、説く者はいつの時代でもいる。

ヘーゲルはこれを絶対精神と区別して世界精神と言い、馬上のナポレオンにその世界精神を見たと言った。

世界精神とは、すなわち時代精神のことです。

神の完全な正義と御心を現実的な場、すなわち歴史と言う現実の場に置き、人類は一単位として一歩一歩歴史の全過程を通して、ここに向かっているのだと説きました。

歴史そのものが神の世界計画である事実をヘーゲルは見抜いておりました。

世界の運動法則としての弁証法を通して、あるいは人類各人の生命の内部にあって神の正義をまさになすべしと命令している「理性の狡知」を通して、全てこの歴史の究極目的としての絶対精神に一歩一歩向かっているのだと明確に説いております。

過去の四聖人も含めて一人も完全な正義は説いておりません。

過去・現在・未来を通しても80年の有限の人生しか付与されていない人間では、神の完全な正義は悟りえないのです。

それは永遠の歴史を通してブロックを積み重ねていくように一歩一歩向かうことしかできない価値、これを神の完全な正義、最高善、あるいは絶対精神と言います。

人類が一単位として向かう歴史の究極目的と各個人の人生の目的は、神の存在において完全に一致しております。

各人も真正の自己を知るために「人生」を歩むように、人類も一単位として真正の自己を知るために「歴史」を歩みます。

そして人生と歴史、その向かうべき方向性は神の存在において完全に一致しております。

完全な正義とは、1回80年の人生で悟りうるような心ではないと言うことです。

歴史の究極目的が神の存在であり、これを悟っている教祖ならば、生き神信仰や個人崇拝などはできないものです。

それは知らない者が行う無知な行為です。

歴史は時間論ですが、空間論としての大宇宙に対しても歴史の究極目的と結論は同一です。

完全な正義、カントの言った最高善、ヘーゲルの主張した絶対精神、宗教家の言う神の御心は、目の前に在る大宇宙とあの世にある多次元世界にしか表現されておりません。

大宇宙は完全な正義の表現体であり、神の体です。

実は多次元世界も神の光が無限に充満している神の神的母体なのです。

この世も神の体であるとするならば、あの世の光の世界、多次元世界も神の神的母体であり、神の体です。

この世では物質と言う神の体、あの世では神の光と言う神の体で全ての人類が、その神的母体の中で生かされているというのが実情です。

物質宇宙は神の完全な正義の表現体です。

あの世の多次元世界も完全な正義の表現体です。

従って神の御心と言うのは眼前に在る大宇宙とあの世である多次元世界のその世界の構造と仕組みの中にしか表現されておりません。

救世の法」とは畢竟、この世における大宇宙の構造と仕組み、そしてあの世における多次元世界の構造と仕組みの中に表現されている神の御心を可能な限り、正確に読解し、読み取った法を言います。

もしこれを正確に読み取り、可能な限り読解し、この世でそれを説いて、説いて、説いて、見事説き切った時、これを「救世の法の成就」と言います。

神の完全な正しさは大宇宙と多次元世界にしか表現されておりません。

そしてその読み取った神の御心を実現していく現実的な場が「歴史」であると言うことです。

人間がそれを望もうが望むまいが関係なく、我々人類はこの歴史の究極目的である神に向かっているし、向かわざるを得ない。

人類に対してそれを無理やり向かわせている知をヘーゲルは「理性の狡知」と言ったのです。

向かわない限り、腐敗はストーカーのように我々人類にしつこく付きまとってくるからです。

そしてこの世のストーカーと同様に場合によっては、このストーカーは人類の内の誰かを滅ぼしていきます。

神の御心と言うのは完全にそれを悟った、あるいは認識できたといった類の価値ではなく、永遠を通して個人にしろ人類全体にしろ一歩一歩ここに向かうことしかできない価値です。

神の完全な正義を完全に悟ったと、もし言われる方がおりますならばその方は大宇宙の存在の意味も歴史の目的とその意味も知らない方と言えます。

もし完全な正義を悟ったと言われるならば、その瞬間、その方の人生の意義も歴史の目的も永遠に失われます。

我々は完全な正義に一歩一歩向かっていくように宿命づけられている。

完全な正義を永遠のタイムを通して向かっていけと命じられている。

例えばアイザック・ニュートン氏は古典力学を打ち立てましたが、完全な科学法則は説けませんでした。

イエスと同じ霊格を持たれている方ですが、さすがに大如来と言えども完全な科学法則は説けなかったわけです。

しかして古典力学の時間と空間の考え方に問題があり、300年後アインシュタイン博士を出してそれを訂正させています。

そのアインシュタイン博士もまた完全な科学法則は説けませんでした。

科学も歴史を通して一歩一歩進化しているわけです。

ヘーゲルは精神の領域でも同じことがあり、一歩一歩完全な神理に歴史を通して向かっていると歴史哲学で説いたのです。

そうであるが故に我々の人生の意義もまた永遠に失われず、未熟な人類の目的も永遠に神から保証されているのです。

生き神信仰や個人崇拝とは、この大宇宙の存在目的の意図、歴史の究極目的としての神の意図を誤解させている信仰であるがゆえに間違っていると言えるのです。

大宇宙の存在目的を知り、歴史で神ご自身が意図されている心を知り、三千世界の構造と仕組みの中に表現されている神の御心を解き明かしていくことが、我々人類の永遠の使命である。

ヘーゲルは神が世界を統治するのであり、我々はその神の御心を知り、それを実現していく任務があると言った。

神の世界計画の遂行が人類の任務である、と。

宇宙は思い、歴史は行いである。

宇宙で神が表現しておられる普遍的思想を読み取り、読み取った思想を行いにおいて歴史を通して実行し、実現していくのである。

神理は、いつでも「信仰」と「思い」と「行い」あるのみである。

これが大宇宙と歴史の意味です。

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