2017年01月02日

非暴力からの神の存在証明

当サイトのホームページ(Creator's Room)からの移植ですが、これが最後です。

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神の存在証明とは、大宇宙の存在証明のことですから、大宇宙の存在を否定できない限りは、神の存在を否定することはできません。

大宇宙そのものが神の体であり、宇宙の広さとは神の心の広さです。

「宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である」: 西田幾多郎

「宇宙は神の表現体であり、神の体である」: 高橋信次

神の心とは、実に現実的なものであり、目の前に大宇宙や自然界として物質的にも表現されています。

「理性的なものは、現実的、現実的なものは理性的」:ヘーゲル

「現実そのままが真理である」:西田幾多郎


ヘーゲルにとって「理性」とは、神そのもののことを指しており、一般が使う意味での推論能力としての「理性」とは違います。

理性的なものは現実的とは、従って神の心は自然界や宇宙に現実化されており、現実的な自然界や宇宙には神の心があらわれていると言っているわけです。

神の心、すなわち神理とは、眼前に存在する自然界と大宇宙に象徴として、比ゆとして、現象として、現実として、あるいは詩として表現されています。

エマソンの言う道徳の第一哲学とは、この象徴主義を指しており、自然界や宇宙は神の思想が象徴されていると言ったのです。

ゲーテは大宇宙や自然界を神の一大ポエム、いわゆる詩として捉えました。

日月星辰・山川草木、これすべて神の詩なのだ。

「移ろいゆくものは、永遠なるものの比ゆに過ぎず」 : ゲーテ

移ろいゆくもの、すなわち物質(神の体)は、永遠なるもの、すなわち神の心の比ゆに過ぎないということです。

従って神理とは、大宇宙の構造と仕組みに表現されている神の意志を正確に読み取った普遍的な価値や思想のことを指し、人間の相対的知性を駆使し、頭脳の密室の中で形式論理学を応用して組み立てた思想や価値のことを指すわけではない。

これはバベルの塔を建設しているに過ぎず、神理とは言わない。

形式論理学は矛盾律を越えられず、神の思想に到達することはできない。

ヘーゲル哲学はそれ自身が「詩」となっており、形式論理学でヘーゲル哲学を理解しようとしても不可能。

神の思想レベルの普遍的特徴は、既に「Creator's Report 1」で述べたので省略する。

神の存在証明とは、大宇宙と自然界が、事実として存在する限り、実はする必要のない証明であり、神とは宇宙そのものであることを知らないものが躍起になって行おうとする行為である。

宇宙の存在(神の存在)は、証明する必要のない存在であり、議論の余地はありません。

大宇宙とはアルファのしてオメガ、初めにして終りであり、まさに「在りて、在る者」です。

我々人類は今後、科学と同様この大宇宙を直接探究していく歴史となる。

すべての善を知るとは、神の心を知ることであり、すべての悪を知るとは、神の体を知ることです。

神の心と神の体、すなわち生命と物質、いわゆる大宇宙を知ることが、神の如く善悪を知らん人間の創造となり、今後の人類の歴史はこの道程を辿る。

目の前に大宇宙が永遠に顕現している限り、無神論などは初めから成立しないし、不可知論などもありえない。

宇宙がなければ人類もなく、人類がなければ宇宙もない。

神が存在するという事実は、全く議論の余地のない事実であり、何人もこれを否定することはできない。

神の存在を信じない人とは、目の前に在る宇宙が見えない盲か、宇宙が神であることを知らない無知な人のみである。

無神論や不可知論は、大宇宙(神の存在)が眼前に永遠に存在する限り、以後この世から消滅する。

信仰とは個々人の心のど真ん中に住する神を信ずることと言っても良いし、個々人の生命に在中するその神は、単に主観の世界にのみ存在するわけではなく、外界の宇宙にも物的に自己の思想を暴露しているため主客の分離がない。

神は内に在リ在りと言って外と切った神は神にあらず。

これ方便。

外の神を信じて内の神と切っても、その内神、外神共にそれは神の心とは言えない。

「仏は内にも外にもありはせん」 : 臨済義玄

主客を切った信仰は、まだ神の実体を捉えておらず、外と切った内なる神は神にあらず、外の神を信じて内なる神と切った神も、また神にあらず。

主観と客観を切って神を認識しているものは、未だ神への正当な信仰者とは言われない。

これらは全て方便の信仰であって、無限を信じている信仰者とはまだ言えない。

神の存在証明は、実相論上は信仰証明論のみであるが、方便上の証明論ならば無数に存在する。

当サイトでは、かつてカントの「道徳的証明」と「平等観からの証明」、並びに「目的論からの要請」を扱いましたけれども、これらは全て方便であり、有限の証明法です。

道徳的証明」に対する西田哲学の批判は、「そは方便である」。

道徳的証明」は、なるほど我々の道徳に偉大な力を与えるに相違ないが、我々人間に道徳が必要だからと言って、かかるもの(神の存在と霊の不死)がなければならぬとはならない。

神の存在と霊天上界は、我々この世の人間の道徳を維持するために存在するわけではない。

これが「道徳的証明」に対する西田哲学の批判です。

今回はその一つである「非暴力からの要請」を簡単に扱ってみたいと思います。

非暴力からの要請とは、非暴力の世界を創造する点から神の存在を必然的な存在として要請した神の証明法です。

キング牧師やガンジー以後、非暴力とは何かが十分、理解されていないため、まず暴力の定義から明確化していかなければならない。

大抵の「暴力」への理解の仕方は、人間を肉体(物質)として見て、この肉体を基準とし、これに対して殴る、蹴る、あるいは武力を行使することそのものを「暴力」と認識しております。

人格と肉体から構成されている存在が人間であり、宇宙も神の心と体によって構成されているのですが、人格や生命は五感で感得しえないため、これを無視して暴力を定義しています。

すなわち肉体観という物質観です。

生命と物質の宇宙論から正確に「暴力」を定義する必要があります。

「暴力」とは、神の正しさに従って物質、すなわち神の体を行使しない時、これを「暴力」と言います。

神の正しさに従って言論を行使しなかった時、この言論の行使を「暴力」と言います。

神の正しさに従って富を行使しなかった時、この富の行使を「暴力」と言います。

神の正しさに従って権力を行使しなかった時、この権力の行使を「暴力」と言います。

神の正しさに従って軍事力を行使しなかった時、この軍事力の行使を「暴力」と言います。

要は神の心に従って神の体が行使されていない状態を「暴力」と定義づけることができるということです。

これが宇宙論から見性した「暴力の定義」です。

物質宇宙は神の表現体であり、神の体です。

神の心に従って神の体は永遠に運営されている。

すなわち大宇宙そのものが永遠の非暴力の世界です。

これから非暴力の世界を作るのではなく、既に大宇宙はそれ自身が非暴力の世界です。

神の正しさ、すなわち神の心と言論・富・権力・軍事力等々の神の体が一体化した状態、宇宙即我の状態が非暴力の状態です。

従って神の正しさに従って、言論が行使されている時、この言論の行使を暴力とは言わない。

神の正しさに従って、富が行使されている時、この富の行使を暴力とは言わない。

神の正しさに従って、権力が行使されている時、この権力の行使を暴力とは言わない。

神の正しさに従って、軍事力が行使されている時、この軍事力の行使を暴力とは言わない。

非暴力の定義も眼前にある大宇宙、すなわち神の存在そのものが永遠に模範であるということです。

宗教でよく言われる功徳や御利益というものも畢竟、宇宙論から定義づけられているものです。

すなわちご利益とは、各人が信仰と悟りによって生命が進化・向上した時、これを原因としてあらわれる現象、物質、これをご利益と言います。

神の体を拝む「偶像崇拝」とは、すなわち御利益信仰のことを指しています。

従ってご利益信仰とは、生命の向上もなく、悟りもないのにこの現象のみを無限に拝む信仰のことを言います。

これがご利益信仰です。

従来、何故ご利益信仰が悪と言われてきたのか、その理由もこの現象のみを拝む信仰は、宇宙論、すなわち神の御心から見ますと神の体を拝んでいる偶像崇拝と同じことだからです。

ガンジーが非暴力・不服従の運動をしようとも、キング牧師が非暴力を唱えようとも、決して非暴力の世界が現象化しなかった理由も、このご利益信仰になっているからです。

生命の信仰も悟りもなく、ただ非暴力という結果のみを求め、生命の悟りも向上もなく、ただ物質の世界で非暴力の御利益だけを得ようとしてきたからです。

どう好意的に見ても結果に比ゆした善、物質に比ゆした善、自我の善、有限の善、善悪の善、すなわち方便の善の域を出ていない。

無限の善だと思い、これら有限の善を無限化すればそれが究極の悪となる。

日本では、信仰も悟りもなく、生命の向上も進化もないのに、これらご利益のみを得んとして目的化する者を「拝み屋」と呼び、「拝み屋の末路はあわれである」と言われてきました。

神の体と言う「物質」のみを拝む「偶像崇拝」にふけっているから「あわれ」なのである。

我々の文明全体も、実は「拝み屋の文明」であり、あわれな最後を遂げる可能性が高い。

信仰も悟りもないのに利益と国益だけを追う「偶像崇拝」にふけっているからです。

拝み屋の末路はあわれである

「暴力」とは、物質や肉体を標準とし、これに対して軍事力を行使したとかしないとか、権力を行使したとかしないとか肉体を殴ったとか殴らなかったといった類のことを指すわけではない。

神の善悪を知らず、悟らず、信仰もなく生命が未熟な状態を維持したまま非暴力の世界のみを得ようとしても、それは永遠に得られない。

それを餓鬼の世界と言う。

非暴力を求めても求めても得られない餓鬼の世界、食べても食べてもお腹が満腹にならない餓鬼の世界、救済を求めても求めても決して得られない餓鬼の世界、世界平和を求めても求めても永遠に得られない餓鬼の世界である。

人間の知識・思考・認識・情操・概念は全て相対的である。

この相対的な心の動きの中に平和も救済も非暴力の世界も存在していない。

自我やご都合主義、個人的な主観や恣意の中に我々の求める世界は、元々存在していない。

霊的な進化・向上とは、神の御心に向かい、これを悟ることをもって成熟と言うからである。

神の善悪を知って、悟り、ここに向かうことをもって霊的向上と言う。

これを知れば、この心に従って言論や富、権力や軍事力を行使できるようになり、この動機・思想・行動によって表現された世界は非暴力の世界になります。

生命と物質、神の心と神の体の一致、すなわち宇宙即我です。

人間自我の相対的な知情意、恣意やご都合主義、利益や国益と言った相対的な価値を無限の目的とするような未熟な生命状態のまま非暴力の世界は現象化しません。

その相対性は、必然的に他との対立と闘争を生み、非暴力の世界から永遠に遠ざかることになるからです。

神の御心とは絶対的なものです。

非暴力とは、万人が神を信じてここに向かい、霊的向上の度合いによって現象化してくるご利益であり、結果ですから非暴力の世界とは、人類各人の生命の進化と向上、信仰と悟り次第です。

少なくとも各人の生命が未熟な状態のまま非暴力の世界は現れません。

正しさを悟っていないために、その正しき心に従って物質を行使できないからです。

神の御心に向かうことをもって成熟と言い、この成熟のみが我々の世界に非暴力の世界を現象化させます。

生命の進化と成熟が唯一非暴力の世界を現出させるものである限り、非暴力と言う利益からも必然的に神の存在は要請されます。

これが方便の一つである利益に比ゆした神の存在証明法の一つ「非暴力からの神の存在証明」です。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理
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