2017年02月05日

愛の発展段階説・捕捉 1

愛の発展段階説とは、言うまでもなく大川さんの独創的神理です。

キリスト教の「」と仏教の「慈悲」を歴史的に統一止揚した画期的神理です。

人類史の偉業であり、すばらしい独創的思想だと思う。

特に私はギリシャ的独創の最右翼なものですから、独創には称賛を惜しまない。

独創をかつて目指してきたし、今も目指しているし、今後も目指していく。

独創とは、地球上のどの図書館の書物にも書かれておらず、それでいて神の御心に叶いながら最も神に近く、同時にそれをみずからの心から直接生み出した思想のことを言う。

独創こそが幸福です。

神約民主論」も地球上のどの図書館所蔵の書物にも書かれていない。

それでいて最も神に近い政治思想です。

全人類救済法則」も地球上のどの図書館所蔵の書物にも、また既存の宗教思想にも書かれておらず、それでいて最も神に近い思想です。

水平線の法」も地球上のどの書物にも書かれておらず、哲学書にもなく、それでいて究極の善悪の普遍的価値基準です。

天地一体の悟り」もどの書物にも書かれておらず、それでいて神に最も近い神理です。

こういった独創を生み出すことが幸福なのです。

そのギリシャ的独創の最右翼が、実は私です。

大川さんのこの愛の発展段階説も、まさにすばらしい独創であり、既存の宗教思想にはありません。

キリスト教では二つの戒めが最大の律法と言われています。

これはあの世でイエスも言っていたことですから知っている人も多いと思う。

キリスト教では次の二つの戒めが最大の教えです。

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 : マタイ22 : 37-40


キリスト教では、この心を尽くして神を愛することの第一の戒めと隣り人を愛することの第二の戒め、この二つの戒めによって律法全体と預言者とがかかっている。

この二つの教えが、キリスト教最大の教えなのです。

この過去の教えに対してイエスが、あの世で修正していたと思うけれども、確かに神を愛することと人を愛することは本義ではあるが、愛を旨とした時にこれだけで愛のすべてを語っているとは思っていない。

神を愛し、人を愛したとて、それだけで菩薩や如来になれるわけではない。

その愛する神に向かうには各段階があり、いきなり菩薩や如来にはなれず、またあのハゲ天の父のいる霊域に帰天できるわけでもない。

あらゆるものには段階と度合がある。 : エマソン

愛にも段階と度合があり、この適切な段階と順序を踏まずして人は正当に霊的進化を遂げていくことはできない。

小学生は、いきなり大学生にはなれず、中学生も段階と高校の学問を無視して、いきなり大学院生になれるわけでもない。

天の父の住する霊域と同一の霊域に帰天するには、天の父と同じ質の悟りをみずから持たねばならず、そうでなければ死後、イエスのいる同じ霊域には住めない。

キリスト教では神を愛し、人を愛せよとは説かれていますが、その愛を旨とした時の神に向かう各段階と度合が説かれていない。

これをあの世でイエスが言っていましたね。

この愛の段階と度合を最初に説かれたのが大川さんです。

まさに彼の独創であり、オリジナルです。

これは要はキリスト教の「愛」と仏教の「慈悲」、このキリスト教の「平等」と仏教の「差別」、この矛盾を統一止揚した神理と言ってもいいでしょう。

愛も慈悲も同じ神の人類への愛情ではあるが、あえて相違を上げれば愛は横の光であり、慈悲は縦の光である。 : 高橋信次

愛を横の光と言っているのは「平等の愛」のことを言っている。

みな同じ平等の神を生命に宿しているのであるから神の子同士、互いに愛し合え、互いに足を洗い合え。

こういった平等の愛ですが、これがキリスト教です。

慈悲を縦の光と言っているのは、上から下に流れる「差別の愛」のことを指しています。

親が子供を優しく見守る愛情ですね。

師が弟子を暖かく見守って導く愛情、先生が子供達に優しく勉強を教えてあげる愛情、上から下に流れる愛情です。

この縦の愛情である慈悲の体現者が、いわゆる仏陀意識です。

従って仏教ではキリスト教と異なり、悟りの各段階を見抜く「智慧」が入ります。

仏教の「智慧」は、我々叡智の霊系団の「智慧」とは、少し性質が異なっているのですね。

大川さんはこの「平等の愛」と「差別の愛」、この平等と差別の相矛盾する理念を歴史上、初めて統一止揚したのです。

愛の見地から平等即差別を説かれた。

知の見地からは西田博士が説かれています。

実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。: 西田幾多郎

如来の思想というのは、矛盾と対立を無限に止揚した思想を説くのです。

私の場合で言えば、自由と平等という民主主義の矛盾している二大概念です。

民主主義諸国では、平等が間違っている、というか物質にすり替えられた方便になっており、これが自由の概念と矛盾をきたしているのです。

民主主義諸国の国民は真の「平等の概念」を知らないのですね。

その証明として一方で平等を語り、主張しながら、他方で無神論を主張しているのです。

当ブログでは、神約民主論において、民主主義下で矛盾している自由と平等の二大概念を「神の存在」によって統一止揚したわけです。

如来は必ずこういった矛盾を止揚した思想を説きます。

ただ幸福の科学は、その思想的傾向としては、やはり愛と慈悲の愛情方面に力点が置かれているでしょうね。

私も霊聴で「自を生かし、他を生かし、すべてを生かせ」と啓示を受けたことがありますが、これはもう大川さんの愛の発展段階説と同じです。

私はその前に『太陽の法』を読んでおりましたから、霊聴で受けた時、これはすぐに愛の発展段階説と同じだと気づきました。

何の思索もなく分かりました。

オリジナルは、もちろん大川さんです。

別に大川さんを真似たのではなく、そういう啓示を霊聴で受けたのです。

潜水艦が海面に浮上するように胸の奥からスーッと啓示されたのです。

大川さんを通して、私を通して、とにかく愛を普及させたい霊人がいるのでしょう。

自を生かす」は、霊天上界、多次元世界で言えば「神界の悟り」であり、この「自を生かす」ことができれば死後、この神界に帰天します。

他を生かす」は、多次元世界で言えば「菩薩界の悟り」であり、この段階を実践できれば、死後菩薩界に帰天します。

全てを生かす」とは、すべての人類の生命の本質である神の心を説けるゆえにすべてを生かせるわけであり、この段階を生涯実践できれば、その方は如来界に帰天します。

すべてを生かしている神の心を説ける段階ということです。

ただ大川さんの愛の発展段階説と異なる点が、もしあるとすれば、私が受けた啓示は、いきなり「神界」から入っており、その下の霊界・幽界の愛がありません。

これが相違と言えば相違であり、これが慈悲の光線である仏陀と叡智の光線下にある私との相違と言えます。

やはり仏教系は、お釈迦様の個性のせいなのでしょうが、どうしても幼い魂への愛情が入るのです。

その愛情から反省法まで生まれた方ですからね。

私が受けた啓示には入っていないでしょう。

ほんとにお釈迦さまは優しい神霊ですからね。

私は普通だと思っていますが、確かにお釈迦様ほど優しくありません。

あらゆる長所は短所に通じ、あらゆる短所は長所に通じる。 : ヘーゲル

その慈悲と愛情は長所ではあるが、同時に短所にも通じていることを仏陀自身が知っておられる。

どんな利益や国益という悪を魂の幼い方が追っていたとしても、たとえ幼い魂が悪を犯していたとしても、あの神霊はそれを殺したり、罰したり、厳しいことを言えない神霊です。

どうしても優しく導こうとされる。

その優しさが同時に幼子と同様、一緒になって同じ利益や国益を追ってしまう性質として出てくるために、その愛情が行き過ぎると、逆に神の正しさから離れてしまう原因になりかねないあやうい短所に通じている。

彼自身がそれを知っている。

それを修正されようとして、らしくないことをしている。

神の善を旨とすれば幼子への慈悲がどうしても出てきて、厳しくできない。

だから富を通して厳しく、冷たい自己を必死に身につけようとしている。

その心がけ自体を悪いことだとは思いません。

宇宙界という進化の極致におられる神霊でも、なおより完成された魂になろうとされている動機自体は悪いことだとは思いません。

下の者からしても、そういった向上心のある方が上の霊域におられるというのは、有難いものです。

ただ外から見ておりますと、それが色々と裏目に出ているようにみえますけどね。

女関係にしろ、法廷闘争の関係にしろ、らしくない厳しい自己を身につけようとしたり、誰も宗教家が踏み込んだことのない未踏の領域に挑戦している心がけ自体は、良いことだと思う。

過去の如来が誰も踏み込んでいないために、神理的に分からない部分が多いわけですね。

例えば高橋信次氏の教えだけならば、単に「忍辱せよ」で終わってしまうのです。

それが8割方の王道だろうとは思うけれども、それですべての諸問題は説明つかないのです。

たとえば幼児虐待の問題です。

高橋信次氏の教えのみならば、単に虐待されている幼児に向かって「忍辱せよ」で終わってしまう。

そんな無体なことはないでしょう。

ドメスティック・バイオレンスの問題でも、夫の暴力に日々耐えている女性に向かって「忍辱せよ」、心に毒をため込まずに耐え忍べ、では問題の解決にはなりません。

そのような無法なことはないでしょう。

やはり虐待されている幼児も暴力に遭遇している女性でも、それは法律が守らなければならないでしょう。

しかしてその法律も人間の作ったものであり、神の法を説く者がどのあたりまで踏み込んでいいのか、誰も過去の如来は説いていないのです。

読売菩薩も結構ですが、それでは問題の解決にはならない。

こういった過去の如来が踏み込んでいない部分に踏み込み、色々と挑戦しているのですね。

ただ大川さん、挑戦は良いのですが、いつも裏目に出ている。

今ではスラップ教団なんて言われているわけです。

過去の宗教家が踏み込んでいない未踏の問題に関わりますと、どうしても極端な方向に行きやすくなる。

神の法と見地からどの範囲まで踏み込んでいいのか、これもまた難しい問題です。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 神理
この記事へのコメント
お世話様です。
2月11日のブログにコメント欄貸せなかったので此方に書き込みます。
安倍の訪日に51兆円の手土産とのコメントを副島氏が吠えています。
彼は神道か知りませんけど、ご参考まで。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/
Posted by 稲舟優人 at 2017年02月12日 08:22
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