2017年02月06日

神理と法律の相違点

神理、いわゆる神の法と人間の法、すなわち法律との相違点は、主に二点。

一点目は、神理は実相説ですが、法律は方便説であるということです。(実相即方便

生命の法が神理、物質の法が法律です。

方便とは物質に比喩した善、自我に比喩した善、利益に比喩した善、善悪の善、快楽に比喩した善、無限化すれば悪を無制限化する善、すなわちこれが方便の善です。

法律は、これ方便の善。

神理は方便の善を含んではいるけれども、神の心を直接捉えて説かれた善です。

故に神理は無限にして永遠、完全にして絶対的な価値を持っています。

法律とは、物的証拠があれば裁けるけれども、物的証拠がなければ裁けない。

物的証拠に依存している善、物質に比喩した善、すなわち法律とは方便の善です。

神理はこういった次元に属してはいない。

故に実相は無限、方便は有限です。

生命は無限、物質は有限ということです。

これが神理と法律の相違点の一です。

既存の政治体制における法律は、この実相と方便が分離しているわけです。

生命と物質が分かれているということです。

司法でも実際、物質が意味する快不快と利益不利益を基準に裁判官は、良心に照らして公平に裁いています。

実際のお裁きでも、六法全書に照らし、快不快、利益不利益、自我を標準に判決を下しています。

六法全書といった書物に比喩した善、物質に比喩した善、利益に比喩した善、快楽に比喩した善、すなわち方便です。

もともと司法は人の罪を裁くわけですが、その罪とは何かが分かっていないわけです。

悪や罪とは、神の意志に反すること、この一点なり。 : ゼウス神

罪や悪とは、人間がその自我と都合で決めるものではなく、神御自身が永遠に決定しておられる価値です。

すなわち宇宙(神の存在)が、罪と悪を永遠に決めているのです。

本来、人間がその快不快、利益不利益で決めるものではない。

神御自身の目から見た罪の派生原理とその意味は既に「Creator's Report 1」述べておりますので省略します。

神約民主論では、すべての不完全な制度を完成させるために選挙制度も変革の対象となっておりますし、司法そのものも変革の対象となります。

司法は罪を裁くくせに、その罪とは何か、神御自身の眼からみた罪とは何かを、まるで理解していないからです。

司法が罪を裁くものである限り、それはあくまで神御自身の目から見た罪でなければならず、既存の体制下では説かれておりませんので、これを普遍的な価値として説いておく必要があります。

つまり大宇宙の絶対的権威(神の権威)の確立した神約民主論体制下では当然、司法も根源から変革されるということです。

既存の方便の善もある程度は入っておりますけれども、大宇宙の存在を前提に根源から変革されることになる。

以前も述べましたが、神約民主論の体制下では、政教分離も守るし、政教一致も守ります。

この矛盾した価値を同時に両方、守ります。

イスラム教国のような宗教国家は、やはり今後は許されなくなるであろう。

宗教団体が、日本全国民を信者にして見せると一方で主張し、事実そうした場合、宗教団体イコール国家となります。

この場合、その宗教団体から破門された者は、国家から破門されたことになるため、こういった前近代的な意味での政教一致は今後はダメです。

人間の作った宗教団体から破門されたとしても、国家はその者を保護しなければならない。

この意味で政教分離は守られなければならない。

しかして政教分離は、一見正常に見えながら、これはポイズン・ピル(毒薬)であり、副作用が酷いのです。

政教分離は、政治家が特定の神への信仰や教義に偏ってはならないというので、政治家が神の正しさを主張できなくなり、その結果としてポイズン・ピル、いわゆる正義ではなく、国益を目的とするようになったのです。

これで全世界が腐敗した。

政教分離によって神の正義を堂々と主張できなくなったのです。

だから政治家は国益という悪を追っている。

古代ギリシャ時代から、政治は常に神の正義の実現がその使命であり、任務だったのです。

これが政教分離で公然と政治家が主張できなくなったのです。

ある意味、政教分離によって世界は腐敗したと言えます。

しかして神への信仰は、永遠の義務になっておりますので、これを外すわけにはいきません。

大宇宙創造の目的は、神の心を知る永遠の学校として作られているわけであり、人間に利益と国益を追わせるために大宇宙を創造したわけではないのです。

永遠の生命の意味も、完全な神の心を知るには80年ぐらいでは無理であろうから永遠を与えているわけです。

これも永遠に利益を追わせるために、与えたわけではない。

永遠の生命を等しく人間に与えたのは、あくまで神の心を知るためです。

我々人類の幸福は、ここにしかないからです。

人が利益と国益、快楽と自我を中心に置くのは、人類の側の霊的未熟もありますが、根本の原因は、ひとえに大宇宙創造の目的と永遠の生命の意味を知らず、失い、忘れているからです。

従って大宇宙創造の目的と永遠の生命(多次元世界)の意味を知って、なおかつ無神論でい続けることは到底できません。

知らないから国益と利益を追い、知らないから無神論を標榜できるのです。

信仰は義務であるということです。

人間の作った宗教団体に入るとか入らないとかは、ある意味どうでもいいことですが、基本的に神への信仰は強制的な永遠の義務になっているのです。

人間が認める、認めないではなく、認めようが認めまいが、永遠にそうなっている。

人間の好き嫌いは関係ないのです。

永遠の義務になっているのです。

この意味で政教一致も守ります。

実際はこのような単純なものではありませんが、原則論ですね。

政教分離も守るし、政教一致も両方同時に守るということです。

特に神約民主論下では選挙制度の根源的改革を必要とします。

今の選挙制度は、非常に間違っており、根本から問題があります。

これも神の理法の通り戻します。

徳治主義の独裁制でもなく、民主主義でもありません。

どちらも含まれている制度であり、これは選挙制度の根源的変革で可能です。

あの世の多次元世界と限りなく一致してくる。

神の理法から大宇宙の構造と仕組み通りに戻していかなければならない。

神約民主論国家では当然、司法も根源から変わるということですね。

これは神御自身の目から見た罪とは何か、悪とは何かが、今回の救世の法で根源から明確になるということです。

罪とは何かが神御自身の目から見て明確になりますので当然、その罪を裁く司法もおのずから変わるということです。

神理は物的証拠がなくても裁けるけれども、法律は物的証拠がなければ裁けない。

物的証拠に依拠した善、物質に比喩した善、すなわち方便の善です。

善の適用範囲は「有限」です。

神理と法律の相違点の一はこれです。

神理と法律の相違点の二点目は、神の善悪は、生命の生死を、直接意味しているけれども、法律の善悪は必ずしも生命の生死を意味しない。

人間の作った法律に反したとしても、必ずしも地獄界に堕ちるわけでもなく、法律を生涯守ったとしても、それが天国行きの切符でもない。

法律を犯した者にしろ天国に帰天している者はいるし、法律を生涯まもって生きたにしろ、神の心を何も悟っていない限り、地獄界に堕ちることになる者もいる。

特に現代では多いでしょう。

法律の善悪は、生命の生死を意味しない。

ところが神理の善悪は、人間生命の生死に直結している。

神の善ならば生き、悪ならば死すということです。

この神理の性質の部分を見て、キリスト教では、「罪の値は死なり」と言っている。

ここで言われている「罪」とは、法律上の「罪」のことではない。

神御自身の目から見た「罪」のことを言っています。

神の善悪は、法律と異なり、直接生命の生死と直結しています。

神の心の通りすれば生きるが、反すれば死ぬ。

神理の善悪とは、生命の生死を意味しています。

これが神理の善悪と法律の善悪の相違点の二点目です。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理
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