2017年03月12日

仏国土は天地を超える

天に父の御心成れるがごとく地にも成らせたまえ。: イエス

かつてこれは方便の善と指摘しておきましたが、それは天界と地獄界を自我で切って天界のみを見て語っている言葉だからです。

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界と多にして一、一にして多、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具している世界です。

平等即差別、一即多、多即一の実在世界が霊天上界です。

幽界から宇宙界に至るまですべての霊人は、全く同一の神の心を宿している点、完全に平等であり、一で結ばれている。

しかしてこの平等にして一なる神の心に向かう各人の努力も、また神の心を基準に公平に評価されて行くべき世界が決まる。

ある者は霊界へ、ある者は神界へ、ある者は菩薩界へと帰天する。

これは神の心を基準にはかられている。

この世のように神の体(利益・国益)によって決まっている世界ではない。

すなわち神の体への信仰によってあの世の「天」とこの世の「地」が分かれている。

これがこの世の不幸の最大の原因。

多次元世界のあの世は、幽界から宇宙界に至るまですべての霊人は幸福であるが、この点を見てイエスは、「天に父の御心成れるがごとく地にも成らせたまえ」と言っていた。

ところがあの世の低位霊界である幽界の下半分には地獄界が形成されている。

天に父の御心は成っていない。

天に父の御心成れるがごとくに成っている世界とは、多次元世界に一つも地獄界が存在していない世界です。

これが神の御心が成っている世界、つまり神の国であり、仏国土です。

イエスは天上界と地獄界を切って、この天上界だけを見て天に父の御心が成っていると捉えていた。

だからキリスト教の教義では、決して神の国はあらわれない。

天上界と地獄界を切るのは自我であり、切ったら実在とはならず、自我となり、よくても方便となる。

自我に比喩した善、利益に比喩した善、有限の善、善悪の善、すなわち方便の善です。

では何故あの世の多次元世界にも、またこの世の地上界にも天の父、つまり神の心が成らないのでしょう。

神の御心は霊天上界に一つも地獄霊が存在せず、地獄界そのものが存在していない世界です。

これが天に父の御心成れるがごとくに成っている世界です。

では更に地獄界は神の創造せし世界ではないのに、何故霊天上界の最下部には地獄界が形成されているのでしょう。

地獄界は、あくまでこの世を縁として死後作られた世界であり、この世の地上人生で人が心に歪みを作り、それを修正できず、死後その心で偽創造された世界です。

この世を縁として作られている世界が地獄界です。

ならばこの世を仏国土にするしかないじゃないか。

この世を仏国土にする運動とは、同時にあの世に天の父の御心を実現する運動と言える。

この世が仏国土とならず、神の体を基準に生き、不幸な世界のままで存在し続ける世界とは、同時にこの世を縁としてあの世の世界にも地獄界に地獄霊を無限に供給し続ける世界となり、いつまで経っても天に父の御心は成らない世界となる。

この地上界で仏国土を造るとは、同時にあの世にも仏国土を造ることとなる。

この世に神の御心成れるがごとく成っている世界とは、同時にあの世にも神の御心が成っている世界と同じだということだ。

この世を縁として地獄界が偽創造され、地獄霊が供給されている。

そして供給されることによってあの世の天も、また神の御心が成っていない世界となる。

あの世とこの世は切れない。

この地上界が仏国土となった時、一体誰が地獄界に堕ちるのであろうか。

一人も地獄界には堕ちない。

すなわちこの世を縁としてその時、あの世もまた天に父の御心が成っている世界となる。

もう分かると思う。

天に父の御心成れるがごとく地にも成らせたまえ。: イエス

とは逆であり、まずこの世に仏国土を造ることによってのみ、次に天に仏国土が造られ、その時初めて「天に父の御心成れるがごとくに成っている世界」が現象化する。

この世に仏国土を造るとは、あの世に仏国土を造ることと同じです。

この世に神の国を造るとは、あの世に神の国を造ることと同じ。

まずあの世、すなわち「天」に神の国があってこれが地上に降りて実現されるのではない。

信仰と悟りによってこの地上界に仏国土を造り、造れば、あの世の「天」もまた仏国土となる。

この世の「地」に仏国土を造らず、あの世の「天」に仏国土が造られることもない。

この世が仏国土とならず、神の国ともなっていないわけであるから当然、この世を縁としてあの世にも地獄霊は無限に供給され続けることになる。

そうなれば「天」に一つも地獄界が存在していない神の御心の実現とはならない。

この世が不幸ならば、あの世も不幸となる。

あの世とこの世は切れない、永遠に一つである。

神の栄光とは、この世とあの世に同時に実現されるものであり、国益や利益のごとくこの世のみに実現され、あの世には何ら実現されない天地が切られたものを言うのではない。

神の心は永遠に天地を貫いている。

貫いているがゆえにこの世に実現された神の栄光とは、必ずあの世にも実現される。

あの世の「天」とこの世の「地」を貫いている価値を神理という。

逆から言えば悪とはあの世とこの世を貫かない価値のことを指す。

天地を分離させる価値を悪と言う。

悪とは神の意志に反すること、この一点なり。: ゼウス神

善とは神の正しさであり、これは永遠に天地を貫いている。

仏陀が今回、全人類幸福化運動を主張しておられるのもこれが理由であろう。

この世で仏国土を造らなければ、いつまで経ってもあの世の地獄界の消滅はない。

あの世の諸神霊もあの世で、なるべく地獄界を消滅させるべく動いているであろうが、あの世だけでは不十分。

我々のこの地上界で無限にあの世に地獄霊を供給し続けているからだ。

この世で仏国土を造り、地獄霊の供給をまず絶たなければならない。

八万四千(はちまんしせん)の法門があると言われる仏教の経典群の中で釈迦の真意に最も近い経典とは法華経であるとよく言われる。

それは法華経のみがこの地上界に仏国土を実現せんとする教えとなっているからだ。

それ以外はこの世を仮の世とし、生まれ変わる自分ではなく、再び生まれ変わらない自分を作るために修行をする現実逃避的な教えが多い。

全人類幸福化運動と同様、この地上界に仏国土を打ち立てるとは釈迦の意志そのものであり、それはやはり法華経が最も釈迦の意志に近いと言えるかもしれません。

ちなみに大乗仏教の経典群は、釈迦の死後400年後に作られた偽教であり、釈迦とは何ら関係ないとする主張があるが、随分と乱暴な主張です。

確かに経典は釈迦直筆ではありませんが、ここ2500年の仏教全体の思想と流れは、お釈迦さまはきちんとあの世から捉えて指導してきております。

その経典を書いた僧侶の悟りの程度にもよるでしょうが、釈迦やその他の諸神霊の指導も入っています。

どのお経にも入っているのです。

釈迦没後、後はあの世で仏教を放っとらかしというのはないわけです。

死後も色々な僧侶を指導していたわけですから当然、その指導の下、大乗の経典群にも釈迦の指導は入っております。

高橋信次氏もあの世で言っていたはずです。

色々なお経がありますけれども、あの経典の中には私が高橋信次として生まれる前の意識体の言葉も入っているのです

というのもこれを言っている。

天台智の一念三千など典型でしょう。

この世では「十界互具」だの「十如是」だの「三世間」だの知と意の産物となり、一般には分からない教えになっておりますが、高橋信次氏の生前の解釈の方が分かりやすいですね。

3とは割り切れず、千とは多いと言う意味であり、心が作る無限の世界を現している。

三千世界とは割り切れないほど無限に多い世界を指す。

心が世界を造るわけであり、その心の動きは無限であり、それだけの世界が意識の世界では客観化されている。

もし人が、仏の心に一念をピタリと合わせることができず、外した場合、妄想無限の世界を意識の世界に作ることになる。

この妄想無限の世界を、いわゆる地獄という。

仏の心に一念をピタリと生涯合わせられれば、その心が造る三千世界はすべて仏国土となる。

カメラの焦点距離を外し、ピントを外せば、ぶれた世界となり、ピンボケの世界となる。

これが現代のピンボケの地上界。

神仏の心に一念がピタリと合致すれば、その動く意識が造る三千世界は、すべて仏国土となる。

天界も、現界も、また地獄界も仏国土となる。

本来、地獄なしではない。

現実に地獄なしである。

仮に70億の人類がその一念をもって神仏の心にピントを合わせることができれば、そこに地獄などあろうはずがない。

現実の世界に地獄なしである。

すなわちこれを仏国土と言う。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理
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