2017年03月24日

如来の悟り、その5つの普遍的特徴

仏教で説かれている「如来」と言われる方々の悟りの特徴は、主に5点。

1点目は、自他一体を悟っていること。

2点目は、宇宙即我を悟っていること。

3点目は、天地一体を悟っていること。

4点目は、主客合一を悟っていること。

5点目は、一即多、多即一、平等即差別を悟っていること。


この5点が如来と言われる方々が共通して持っておられる悟りの特徴です。

この5点の特徴は、あの世とこの世を貫いている永遠の法則です。

この5点は過去・現在・未来を通して永遠に変わらない、不変の法則であるということです。

自他一体とは、大如来即大魔王であり、大如来の本質にも神の存在はあり、大魔王と言われる地獄の魔王の本質にも如来と同一の神の存在がある。

神の存在においてのみ永遠に大魔王即大如来で自他一体です。

つまり霊格の相違も関係ないということであり、神界人の本質も神の存在があり、如来の本質にも同一の神の存在がある。

幽界即霊界即神界即菩薩界即如来界即宇宙界です。

天界・現界・地獄界の全霊人は、一人の例外もなく神の存在において永遠に平等であり、平等である限り永遠に「自他一体」ということです。

これが1点。

二点目は「宇宙即我」であり、宇宙は神が統治しているのであり、その統治されている大宇宙に我々人類のみならず、他の星の神の子達もすべて一人の例外もなく、永遠に支配されている。

この神の統治と支配が理解できず、認識できず、悟り得ず、自我のまま生きれば必然的に自我を標準として神の体(物質)に支配され、世界と人類、宇宙と人類は切断され、我々の星は腐敗していくこととなる。

世界と人類が切断される原因こそが無神論であり、信仰の欠如です。

神への信仰が欠如しているゆえに自己標準で生きる。

自我を標準に生きれば、必然的に神の体の方面の支配を受けて、物質を最上位に置く偶像崇拝となり、世界は腐敗していくことになる。

だったら神を信ずるしかないじゃないか。

神我を強めるしかないじゃないか。

これ以外に何をしろというのだ。

神我を強めれば神の心の方面の支配をうける。

そして様々な導きを受けて世界は、それだけ良化していくこととなる。

極微の人間が自我を強めれば、極大の神の体の方面の支配を受け、極微の神我を強めれば、極大の神の心の方面の支配を受けるのは、永遠に宇宙(神の存在)と人類は一つだからです。

この悟りを「我は神(宇宙)と共に在り」と言われてきました。

極微即極大、ミクロ即マクロ、宇宙即我です。

これが2点目。

3点目は、天地一体です。

物質宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

物質宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次


神の心が「天」であり、神の体は「地」で、永遠に天地一体です。

正義が「天」であり、国益が「地」で、永遠に天地一体です。

神の善が「天」であり、利益が「地」で、永遠に天地一体です。

幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体です。

神の体(物質)と国益、利益と快楽を「天」においている文明ですが、これを大宇宙の構造と仕組み通りに戻していかなければならない。

物質と国益、利益と快楽は、自我であり、否定しろとまでは言わないけれども、すべて相対的なものである限り、有限の範囲でしか神は許容しておられない。

これを最上位においた文明は、偶像崇拝の文明となり、崩壊を余儀なくされるであろう。

今後の文明で同じ間違いを犯してはいけない。

4点目は、主客合一であり、

見られる世界は、見る者の心の世界 : 西田幾多郎

これもあの世とこの世を貫き、一致している法則です。

この世でも見られる全世界は、見る者全人類の心の世界であり、主客は永遠に合一しています。

従って人類の心が腐敗すれば、世界も腐敗し、人類の心が良化すれば、世界も良化する。

何故か?

世界(客観)と心(主観)は一つだからです。

この主客合一の法則は、この世のみならず、あの世のどの霊域にも普遍妥当している法則です。

見られる神界というその世界は、そこに住む神界人の心の世界であり、主客は合一しています。

見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心の世界であり、主客は合一しています。

見られる如来界というその世界は、そこに住む如来の心の世界であり、主客は永遠に合一している。

事物や対象は、人の眺めるその眺め方に従って存在する : オスカー・ワイルド

世界を理性的に見る者、その者にもまた世界は理性的な姿を呈する : ヘーゲル


心の通りの世界となる。

主客合一は、あの世とこの世を貫いている。

あの世とこの世で共通している法則です。

この悟りは、霊天上界と地上界に共通している理法であり、永遠に不変です。

心が悪くなれば世界も悪くなり、心が良くなれば世界も良くなる。

だったら心を磨くしかないじゃないか。

神の心を悟るしかないじゃないか。

これ以外に何をしろというのだ。

しかも自己の心は、唯一あの世に持って帰れるものではないか。

財産も権力も、地位も名誉も、自己の肉体すらあの世に持って帰ることはできない。

しかして自己の心は、あの世にもってかえれる唯一のものではないか。

心こそが天地を貫いている最も大切なものです。

あの世にもってかえれないものを得ようと努力するものをお釈迦様は「盲目の衆生」と呼んだ。

あの世に持って帰れないものを得ようとして、持って帰れる大切な心を失う者をそう呼んだ。

あの世に持って帰れないもののために生きれば、世界は腐敗し、持って帰れるもののために生きた者は世界を良化する。

そんなことは、

世のさま、見りゃわかるであろうがな。

5点目は、一即多、多即一、平等即差別ですが、これも本来はあの世とこの世を貫いています。

この世は、人類の霊的未熟から神の心ではなく、神の体(物質)を基準に天地と上下の方位が定まっている。

神への信仰と悟りによって生命が進化・向上した時、これを原因(神の心)として、結果(神の体)あらわれる物質、すなわち国益と利益、地位と富を基準に天地と上下の方位が決まっているわけです。

つまり「あなたお金もっているから上の人ね、あなたはお金もってないから下の人ね。

あなたは地位があるから上の人ね、地位がないから下の人ね
」などと神の体(国益や富)で上下と天地の方位が決まっています。

相対的なもの、すなわち物質を心の物差しに置いているわけです。

これを宗教的には「偶像崇拝」と言いますが、これは特に中東では禁止してきました。

これは地上のすべての悪の根源だからです。

ギリシャ神話的に言えば、「パンドラの箱」です。

すべての悪が、パンドラの箱から無限に出てきます。

そしてこれがあの世の「天」とこの世の「地」を分けて、この世を不幸にする根源の原因となっている。

物質は天地を分ける最たるものであり、自己の肉体という物質ですらあの世に持って帰れず、天と地がもともと分かれています。

心は天地を永遠に貫いている。

あの世、すなわち霊天上界は、この世のように神の体で天地と上下の方位が定まっているわけではない。

逆です。

霊天上界は、神の体ではなく、神の心を基準に天地と上下の方位が定まっている。

神の心においてのみ天界・現界・地獄界の三千世界の霊人は、完全永遠に「平等」であり、これを悟ることが人類各人の人生の意義となっているが、しかしてこの平等の一つの心(神の心)を知る各人の努力も神は公平に評価されている。

10の善を悟りたる者は10の世界へ、50の善を悟りたる者は50の世界へ、公平に評価されている。

この公平な評価をGLAの高橋信次氏は、

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界etcと説かれた。

この結果だけを見れば「差別」ですが、「平等」の神の心を基準に公平に評価されているわけであるから平等即差別が根本の公理です。

平等の「一」と差別の「多」は分かれていない。

一にして多、多にして一、平等即差別が実在です。

実在の根本的方式は、一にして多、多にして一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである : 西田幾多郎

この世は神の体を基準に天地と上下の方位が決まっているが、あの世は神の心を基準に天地と上下の方位が決まっている。

神の心を基準に天地の方位が決まっている霊天上界は、低い霊域から高い霊域まですべての霊人が、一人残らず幸福であるが、神の体を基準に天地の方位が決まっているこの世は半数以上もの人達が地獄界に堕ちている不幸な世界です。

何が原因でしょう?

すべては心の物差しを神の体という相対的なものに置いている点が原因です。

これがあの世の「天」とこの世の「地」を分けて、この世を不幸にしている。

お釈迦様が全人類幸福化運動というならば、心の物差しを神の心に置くしかないじゃないか。

神の体を心の物差しにおいてこの世が不幸になっているならば、だったら神の心を心とするしかないじゃないか。

それ以外に何をしろというのだ。

ちなみに仏教の世界では仏陀とアラハンは同一の悟りを持っていると言われているわけですが、釈迦は初代であり、特別な存在ですので悟りの実質はアラハンと同じでもアラハンとは呼ばず、釈迦のことを「仏陀」と呼びます。

にも拘らずGLAの高橋信次氏は、アラハンを如来や宇宙界とはせず、神界としたわけです。

これはどうしたことか。

またあのデタラメの高橋仏教が、と言われる向きもおありになろうが、仏教界の方が間違いであり、高橋信次氏の方が正しいのです。

高橋氏は、霊能力で実地にフィールドワークをしていたのです。

2600年前を霊視して、実際の釈迦と釈迦弟子の対話を見て、知っていたし、その釈迦弟子の悟りのレベルも見ていた。

だから『人間・釈迦』を書けたのです。

その2600年前の釈迦弟子の悟りを見れば、お釈迦さまほどの悟りをもっていなかった。

あの世の悟りのレベルでは、神界クラスの悟りしかもっていなかったことを確認しているのです。

釈迦弟子は、あの世の神界クラスの悟りしかもっていなかったのに、そういった者をアラハンと呼んでいるから、ならばアラハンとは神界だという判断なのです。

彼は仏教の知識をもっておらず、仏教界の既成概念に捉われることがなかった人です。

釈迦弟子でもお釈迦さまと同じレベルの悟りをもっていなかった。

だから仏典結集を集団指導体制でやらざるを得なかったのです。

もしアラハンが仏陀と同じ悟りであるならば、単独で仏陀の法を継げたはずなのです。

ところが単独で継げる弟子はいなかったのです。

だから集団指導体制で仏典結集をしたのです。

結局、釈迦弟子でも釈迦が到達した深淵な悟りの領野を理解できる弟子はいなかった。

だから高橋信次氏は、アラハンを神界にしたということです。

余談かもしれませんが、そういうことらしいです。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理
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