2017年04月14日

菩薩の悟り 1

如来の悟りの普遍的特徴は以前述べたと思います。

如来の悟りの特徴は、主に5点。

1 自他一体を悟っていること。

2 宇宙即我を悟っていること。

3 天地一体を悟っていること。

4 主客合一を悟っていること。

5 一即多、多即一、平等即差別を悟っていること。


この5点ですが、これは永遠に変わりません。

では菩薩の悟りとは何でしょう。

簡単に言えば上記の5点の悟りをもっていない悟りと言えます。

まず自他一体を悟っていない。

宇宙即我を悟っていない。

そして天地一体を悟っておらず、主客合一も悟っておらず、平等即差別も悟っていない。

菩薩と如来の共通点は、どちらも神の心を心とせんとし、神の心を基準に生きんとする点は同じです。

ただその神の心との一体感、同通感の度合が決定的に異なっています。

神との同通感覚が如来よりも劣るということは、物質的・利益的な側面が菩薩にはどうしてもあるということです。

神との一体感が不十分であるということです。

イエスも言っていたと思いますが、如来の仏像は質素であり、密教系の仏像は別ですが、概して如来の仏像は飾るものをつけていない。

対して菩薩の仏像には、ネックレスや腕輪、飾り物がつけられており、少し飾る心を持っている。

良い意味でのエリート意識をもっており、人を見下すとかふんぞり返って威張るとかいうような鼻もちならないエリート意識ではなく、神の僕として正しい神の御心に仕えている点から来ているエリート意識です。

神の心をある程度自力的に悟っている、そしてその心に仕えているし、神に仕えられているし、その行いもできる。

ただ少し如来と比べて飾る心をもっている。

霊天上界でも500億とも600億とも言われている霊人口の中で、わずか2万人しかいないわけですから、おかしな言い方かもしれませんが、エリートと言えばエリートです。

この世のエリートとは逆ですけどね。

菩薩の悟りの特徴は民主主義と共産主義で露骨に出ています。

この両体制は、どちらも菩薩がつくった体制です。

ルソーも菩薩、マルクスも菩薩です。

如来が造った政治体制というのは、「神約民主論」が初めてだと思う。

高橋信次も西田博士も大川さんも提出していませんからね。

菩薩の悟りとは、自他一体を悟っていないということは、自他がまだ分離しているということです。

大魔王即大如来を悟っていない。

大魔王と大如来の生命の本質は、神において永遠に一つであり、ただちに同じである事実を悟っておりませんのでまだ悪魔と戦おうとする。

方便で悪魔と戦おうとする如来はおりますが、実相で戦おうとする如来はおらず、悪魔と戦えというのは、あくまで方便の善です。

方便とは、まだ天使と悪魔が便宜上、あるいは必要上分かれたことをしているということです。

如来の場合は方便で悪魔と戦えと言う時はありますが、誤解をしてはいけない。

如来がそういう時には、あくまで方便で言っているのです。

本気でそう思っているわけではありません。

彼らは悪魔でも悪魔と思って接していないのです。

あくまで現実的な必要性からしているだけです。

ただこれを実相と捉え、本気で悪魔と戦うことを善と思っているならば、それは悟りが未熟なのです。

完全に天使と悪魔、天国と地獄がその者の心の中で分かれているのです。

それでいて善ならば、方便の善です。

まだ天国と地獄が分かれている。

ということは一人残らずの全人類救済法則を悟っておらず、この段階の魂でも未だ人類救済はできないということになります。

菩薩というかなり優れた魂でも、この段階の悟りでは人類救済はできない。

菩薩が方便の善しか説けないのは、この自他一体を十分悟っていないからです。

その自他一体の言葉が、口先だけのものになっている。

自他を切るのは自我ですから、自我に比喩した善、利益に比喩した善、快楽に比喩した善、物質に比喩した善、すなわちどうしても方便の善となる。

また宇宙即我を悟っていないということは、まだ宇宙と我が分かれているということです。

菩薩は眼前にある大宇宙が神そのものである事実を自力で悟れない。

だから中には個人崇拝に陥ったり、弟子の生活になったりする。

宇宙即我を悟っていないということは、宇宙が神だと悟っていないということであり、逆から言えば宇宙と我がまだ分離しているということです。

分離しているから宇宙が神だと悟れないのです。

宇宙と我を分けるのも自我ですから、ここでもどうしても自我に比喩した善、つまり方便の善とならざるを得ない。

現実そのままが真理である : 西田幾多郎

自分と他人、宇宙と自分を切ったら実在とはならず、自我となる。

ここから自我の有限性に比例した有限の善しか説けず、これが菩薩の悟りでは全人類救済ができない理由です。

3つ目の点は、天地一体の悟りを得ておりませんので、菩薩はまだ天地が分かれている。

ただ天地が分かれているとはいえ、菩薩は神の心を心とせんとするがゆえに神の心が最上位に置かれているため、そうそう神の体を天に置く傲慢は犯しません。

神への信仰と悟りによって生命が進化・向上した時、これを原因(神の心)として結果(神の体)あらわれる国益、利益、快楽、地位名誉、金銭、神の体が意味する相対的なるものを最上位に置くことはありません。

これを最上位に置けば「偶像崇拝」となり、神の体(物質・利益・自我)を「」に置き、神の心を「」に置くようになり、魔に堕ちます。

魔に堕ちる根拠は宇宙論。

宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

永遠、というのは宇宙が終わるまでという意味ですが、神の心が「」であり、神の体は「」で永遠に天地一体です。

悟りの未熟なる者は、これを逆にしておりますが、国益や富、職歴や学歴、地位や名誉等々を「」に置き、神の正義を「」に置きます。

これが霊的未熟ですが、多くはそう生きているはずです。

これが間違っていると断定できる根拠も宇宙論(神の存在)。

眼前の大宇宙では永遠に神の心が「」であり、神の体(物質)は「」であるにも関わらず、その「地」である国益や利益、快楽や物質、自我や従的なるものを「」に置いているからです。

宇宙と分離したことをしているから神御自身の目から見て間違っていると言っている。

宇宙は永遠に神の心が「」であり、神の体は「」で天地一体です。

菩薩さんはまだ神の心が十分に分かってはいないのですが、常に神の心を心とせんとしているがゆえに、これが逆転されにくいのですね。

正当な信仰をもっているということです。

宗教宗派、あるいは個性の相違はあれど信仰のない菩薩は一人もおらず、あの世のエリートで神への信仰のない者は一人もいない。

しかしてこの世のエリートには多く存在する。

この点もあの世とこの世の相違です。

ただ菩薩はその神の心が十分分からない。

だからどうしても弟子の生活になる。

天地がまだ切られておりますので、状況と場合によっては「」を「」に置き、「」を「」に置くことが可能性としてはあり得る。

ただ正当に菩薩の悟りを得ている者は、そういうことがあってもすぐに修正し、訂正します。

天地が切られるのも自我の作用であり、天地が切られたら実在とはならず、自我となる。

現実そのままが真理である : 西田幾多郎

好意的に見ても自我に比喩した善、物質に比喩した善、すなわち方便の善となる。

4点目はイエスの比喩でもあったけれども、菩薩にはまだ飾る心が少しあると言う事実は、自他を切っている作用を意味するが、自他が切られているから他人に良く見せようとする。

虚栄は自他が分離した点から生じている。

自他が切られているということは、その者の心の中で主観と客観が切られていることを意味する。

心の底でニタニタ笑いながら(主観)、外面(客観)で善人ぶる偽善もこの主客分離の悟り不足から生じている。

この悟り不足が、世界の腐敗に直結していることは言うまでもない。

神は自他一体の存在そのものですから他人と区別する固有名詞は存在しない。

あえて言えば名無しの権兵衛であり、神に名前など存在しない。

名前とは他者と区別するために便宜上設けられている名称に過ぎない。

神に名はない。

ただそれですと都合が悪い点もあるために地球では、大宇宙を統べている存在を便宜上「神」という名前で呼んでいるに過ぎない。

永遠に自他一体であるゆえに本来、神に名はない。

ただ宇宙を生かしている実在のエネルギー、意志あるエネルギー在るのみ。

見られる世界(客観)は、見る者の心の世界(主観) : 西田幾多郎

主客は永遠に合一している。

見られる全世界(客観)は、見る者全人類の心の世界(主観)であり、主客は合一している。

霊天上界も同じ。

見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心の世界である。

天界・現界・地獄界の三千世界は、永遠に主客合一に貫かれている。

主客合一は、あの世とこの世を永遠に貫き、それは地獄界とて例外ではない。

見られる無間地獄というその世界は、そこに住む無間地獄界人の心の世界である。

仏教では、三界は唯心の所現、心外無別法と言います。

天界・現界・地獄界の三界はただ心のあらわれであり、心の外に別に法なし、存在なし。

菩薩は、まだ主客合一を悟っていないために世界の構造と仕組みが十分読み取れない。

だから主と客を分ける。

例えば「Creator's Rport」の「叡智の極点」でも述べたけれども、菩薩の悟りでは主と客を分けているがゆえに臨済和尚が『宗門統要集5』で述べた次の質問に答えることができない。

良くても方便の答えしかできない。

神理の求道者にとっても良い質問かもしれませんので一つ悟って見て下さい。

これが答えられなければ菩薩ですらない。

弟子の雲水が臨済和尚の「」を真似ていた。

あきれた臨済和尚は、雲水に次のように言います。

宗門統要集5』からの引用です。

師(臨済和尚)は機に応じて喝を用いることが多かった。

その門下の雲水も師の喝(かつ)を真似た。

ある日、師は僧に問うた

「君たちはみなわしの喝を真似ているが、ひとつ尋ねてみたい。

一人が東堂から出てきて、ひとりが西堂から出てきた。

両人そろって一喝を交えたとする。

そこに主客の別ははっきりしている。

君たちはどう見分けるか。

もし見分けられねば、今後わしの喝を真似てはならぬ」


東堂から一人の禅僧が出てきて、西堂からもう一人の禅僧が出てくる。

互いにあい対し正面から同時に一喝(いっかつ)を交える。

どちらの禅僧が「主」で、どちらの禅僧が「客」か、臨済和尚が言っている通り「主客ははっきりしている

どちらが「主」で、どちらが「客」か。

東の禅僧か、西の禅僧か。

主客は、はっきりしている。

臨済和尚は、これが答えられなければ、わしの「」を真似てはならんと言っています。

よく悟っています。

答えられなければ臨済和尚から「この小便小僧が・・」と言われます。

菩薩はこの臨済和尚の質問に答えることはできない。

それを悟り不足と言う。

如来は正確に答えることができる。

悟りの未熟なる者は、この質問に決して答えることができない事実を和尚は、はっきりと知っています。

1200年前の坊主とは思えませんね。

主客合一を明確に1200年前の坊主が悟っています。

主客合一を悟っていないから答えられないのです。

これと同じ理由で平等即差別も悟っていない。

平等と差別を切って認識しているのです。

一即多、多即一は如来の悟りだそうですから菩薩が悟れないのも無理はありませんが、平等即差別を切るのも自我です。

平等と差別を切って、それでいて善ならば、やはり自我に比喩した善、利益に比喩した善、物質に比喩した善、すなわち方便です。

菩薩が弟子の生活になる理由はここら辺ですね。

全然、本論まで行きませんでした。

次回以降にします。

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