2017年05月20日

GLAと幸福の科学 10

俗によく「救世の母体」と言われますが、その意味をGLAも幸福の科学も十分理解していなかったように思います。

前世代の如来はこの点も説いておられるのですが、大雑把に説かれているために理解できていなかったのかもしれません。

あるいは過去に出られた如来の思想を十分勉強していなかったとも言えます。

如来は、普遍的意識そのものの霊的実体であるため東洋、西洋の相違はありません。

西洋に出た如来も東洋に出た如来も個性のフィルターの相違はありますが、その悟りはすべて共通した理念をもっています。

神の思想レベル」の3つの特徴は、既に「Creator's Report 1」で説いておりますので繰り返しません。

このレベルに達していない者は如来とは言えない。

西洋ならばヘーゲルやゲーテ、あるいはエマソンやスウェーデンボルグ、東洋では西田幾多郎や高橋信次は、この共通の如来の理念を悟っておりました。

近代のここ200年を捉えても世界で「神の思想レベル」に到達していた者は、6、7人ほどしかいないのです。

おかしいでしょ?

日本では20万団体の宗教団体があり、20万人の教祖がいるわけです。

しかしてただの一人も「神の思想レベル」に到達している教祖はいないのです。

悟っていないのに悟っている振りをすれば、これは詐欺師です。

だから宗教家は詐欺罪を犯していると諸神霊が誰か言っていましたね。

あのカントですら生前は「神の思想レベル」に到達できていなかったのです。

ハイデッガーも如来ですが、到達していませんでした。

ジョン・ロックも如来ですが、同じく到達していません。

いくら霊格が如来であるからと言って「神の思想」を悟れる保証などどこにもないわけです。

ドイツ観念論を完成させたヘーゲルは明確に「神の思想」を悟っておりましたし、エマソンも悟っていました。

キリスト教に多少偏っていた側面はありますが、スウェーデンボルグも悟っておりましたし、ゲーテも悟っておりました。

欧米でもここ200年を見ますと「神の思想レベル」に到達できていた者は、この4人しかいないのです。

20万人もいるわけない。

だから神の名を騙って詐欺罪を犯していると言われている。

単なる自己都合の頭で考えた思想を述べているだけですから、みだりに神の名を語らないように。

話がそれました。

救世の母体」とは、まさに宇宙論そのものであり、これを悟っていなければ、大抵道を逸れます。

前世代の大如来である高橋信次氏は、どう説いていたか見てみましょう。

ただ彼は少し大雑把ですからね。

分かりにくいかもしれない。

宗教団体ではよくありますが、初めは純粋に神のためにやっているから良い神理を説いたりします。

そして良い神理を説けば、その影として人・物・金・偉いが段々集まってくる。

するとぼちぼち始まるわけですね。

目が外に向いてくる。

物に対する執着が出てくる。

そうなると次第にむさぼりの心から信者を犠牲にし始める、これもまた危険なことです。


1986年、1987年、1988年と初めは神のために純粋にやっておりますから良い神理が説けたりする。

あまり影として人・物・金が集まっていないからですね。

だから執着することもない。

執着しようにも、するほどの人・物・金が初めは集まっていないからです。

物質宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次

生命と物質は一つであり、切れません。

生命即物質で大宇宙です。

生命が神理であり、物質が利益です。

生命が神の心であり、物質は神の体であり、神理の影です。

神理を説きますとこれを原因として結果、神理の影、いわゆる御利益が出てきます。

宇宙論は永遠にそうなっているのです。

だから神理を悟れば、これを原因として結果、地獄界の解消という利益、飢餓の消滅という利益、非暴力という利益、世界平和という利益、人種差別撤廃という利益、繁栄という利益が現象化してくるのです。

影があらわれてくるわけです。

この姿を俗に「神の繁栄」と言い、大宇宙そのものが永遠の神の繁栄の姿です。

どのような神理を悟っても世界平和の利益があらわれない、人種差別撤廃の利益があらわれない、地獄界消滅の利益があらわれないのでは、神の心が「絶望」となってしまいます。

どんなに神の心を悟っても世界平和があらわれないのでしょう?

どんなに神の心を悟っても、非暴力の世界があらわれないわけでしょう?

どんなに神の心を悟っても、富の繁栄もなく、地獄界も消滅しないでは、神理を悟ってもしようがないでしょう。

だって神の心を悟っても地獄界は消滅せず、世界平和もあらわれず、人種差別もなくならないわけでしょう?

ならば神の心は「絶望」でしかありません。

苦労して悟っても無駄です。

金と国益という悪を目的とし、追っていた方が無難です。

ところが神御自身は大宇宙の構造と仕組みをそう作ってはいない。

大宇宙の存在そのものが「希望」となるように創造されています。

生命と物質は一つであり、この構造と仕組みそのもの、すなわち大宇宙の存在(神の存在)そのものが「希望」となっているのです。

神理を悟って各人が向上していけば、その国家や文明は富の繁栄も現象化してきて先進国と言われるような文明になるのです。

そういう仕組みになっているのです。

生命(神の心・正義)と物質(神の体・利益)は永遠に一つです。

切れないのです。

切れば「神の繁栄」は永遠にあらわれません。

これを切っているのが神道です。

だから大宇宙は永遠の「希望」となっている。

幸福の科学も初めは純粋に神のためにやっておりましたから諸神霊からも啓示を受けられておりました。

初めは良い神理を出しておりましたし、出ていました。

ところが1989年ぐらいになりますと「神理の影」として莫大な人・物・金が集まってきます。

生命即物質で神理の影があらわれてくるわけです。

するとぼちぼち始まるわけですね。

目が外に向いてくる、物に対する執着が出てくる。

物質的に大豪邸に住むとか住まないとか、莫大な富を持つとか持たないとか、外界の在り方はどうでもいいのです。

外界は影ですから、神理を説いていけば、その質に比例した利益が出てきますし、これを否定してはいけない。

それは神理を悟って向上した時、これを原因として結果でてくる地獄界の消滅という利益を否定してはいけないのと同じです。

出てくることが希望になっておりますし、そういった構造になっています。

外界のその利益、大豪邸だの莫大な資産だの形式的にはもっていいというか持たなければならないわけですが、しかして心で絶対に持ってはいけないのです。

地面に写っている影を手で持てますか?

ところが素人は心で簡単にそれを持ってしまうのです。

これも神の奥義の一つと言っても差し支えありませんが、悟りの低い者はこの時、物質から批難します。

物しか分からないからです。

神の心を説いている者が、お金儲けをやっている、金をもっている、大豪邸に住んでいると物質的側面から非難します。

もっと貧しく貧相に、清貧で生きろと強要するわけです。

これを悟り不足と言う。

だから悟りの低い人達の特徴は、アッシジの聖フランチェスコのように清貧を気取り、神の心を悟っていない事実を暴露することになる。

清貧の思想は、まだ物に捉われている思想であり、物を基準に物を減らし、物で貧しくなっていこうとする思想である。

彼らは物質を減らし、減少させ、貧しく見せることによって欲深ではない自分を誇示し、虚栄にふけっている。

肉体の欲望が悪であると誤った認識の中に生き、神の目ではなく、人の目にきれいに見せようと虚飾にふけっている。

そして人の眼に善人に見せるために物を減らしていくわけであるが、決して捨てられない物に気づき、その時に初めてその誤りと矛盾に気づく。

その決して捨てられない物とは、肉体である。

清貧の思想とは、まだ肉体と物に捉われた思想であり、神理にあらず。

神道が大抵これですが、神理で金をとってはいけないと逆の心を盲信しています。

逆です。

神理を悟っている者だけが金儲けをしていいのです。

神理を何も悟っていないということは、人間としての義務を初めから放棄しているということであり、そういった者ほど金儲けをしてはいけないのです。

だから世界は腐敗し、半分もの人間が地獄に堕ちている。

何故、している?

神の善を何も語れない、悟っていない者は本来、水を飲んでもいけないし、食べ物を食べてもいけない。

空気を吸ってもいけない。

神の心を悟っている者だけが金儲けをしていいし、大豪邸に住んでもいいし、莫大な資産をもってもいいのです。

善人が持ったって、そんな悪さはしません。

神の心を旨としている者だけが、莫大な資産や大豪邸に住んでいいのですね。

水を飲んでいいし、空気を吸っていい、食べ物を食べていいのです。

大衆への迎合から今まで神の心と逆の心を説いてきました。

神理で金儲けをしてはいけないと逆を説いてきたのです。

神理を何も悟っていない者だけが金儲けをしろ、と。

そりゃ腐るに決まっています。

ただこの時、神理の使徒でも外界的には良いのですが、心で決して莫大な資産、大豪邸をもってはいけないのです。

物質や利益は影であり、心で握ってはならないものです。

莫大な資産が出てきた時、それを心で握るのが神理の素人であり、心でそれを決して握らないのが神理のプロです。

大抵できませんけどね。

大抵、心で思いっきり握ってしまうのです。

大抵はそうです。

大豪邸であろうが、莫大な資産であろうが、心で持ってはいけないのです。

形ではもたねばならず、その形でもっている状態のまま心で持ってはいけない。

心で物質を「」に置いてはいけない。

これができるのが神理のプロです。

幸福の科学は、心で握ってしまいました。

神理の影は、握ってはいけないと説かれては来ているのですが、握ってしまいました。

以後、すべて物質が「」に置かれています。

紙幅の関係でここで切ります。

救世の母体」とは何かというのは、今後の使徒にとっても重要な問題です。

以後の歴史で同じ間違いを犯さないように正確を帰しておきたいと思っています。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理関係
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