2017年07月10日

アンタッチャブル 7

物質宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

過去・現在・未来の三世におけるすべての善の源は神の心であり、すべての悪の源は神の体である。

すべての善の源である神の心は「」であり、すべての悪の源である神の体(物質)は「」である。

神の心と神の体は一つであり、生命即物質で永遠に一つである。

一つであるということは、生命が「」であり、物質が「」で永遠に天地一体である。

正義が「」であり、国益が「」で天地一体である。

神の心が「」であり、利益と快楽が「」で永遠に天地一体である。

1000年後も1万年後も変わらず正義が「」であり、利益が「」で天地一体である。

この通り生涯生きられれば、これ宇宙即我であり、仏教的には如来である。

大抵は生きられないのですね。

悟りが「」であり、神の心を悟れば、これを原因(神の心)として結果(神の体)霊能力が発現する時もある。

神の心が「」であり、霊能力は「」で天地一体です。

桐山密教等の超能力を目的とした宗教が、何故間違っているのかというのも、この宇宙論(神の存在)。

悟りが「」であり、霊能力は「」であるにも関わらず、この霊能力を「」に置き、悟りを「」に置いているがゆえに霊能力信仰は間違っていると断定していい。

霊的に未熟なる者は、これを逆転させるのです。

霊能力という「」を得んがために悟りを求める。

目的が悟りではなく、霊能力になっている。

大宇宙は神の心が「」であり、霊能力は「」である。

これを逆転させるのです。

霊能力を「」に置き、神の心を「」に置いている。

宇宙の構造と分離している。

だから霊能力信仰等の超能力系統の宗教は間違っていると言っていい。

手かざし系の宗教も同じです。

内なる光によって悪霊を払うのが筋であって、外なる光(手かざし)によって悪霊は払えない。

神の心と善、この悟りによってしか悪霊は払えない。

古代ギリシャ人が言った優れたるもの、うるわしきもの、うつくしきものを悟れば、これを原因として結果、生命が神の光で発光しますので悪霊はついていられなくなる。

生命の内なる光は悟りによってしか出ませんので結局、悪霊を払うのは神の心とその悟りであって外からの手かざしではない。

悪霊や悪魔を払うことができるのは、徹頭徹尾「神の心」以外にはないということです。

物質に光を当てれば光と影が生じ、必ず善悪、光影の二元論となります。

ところが霊天上界の諸霊には、みな影がありません。

それは一人一人の霊人が、悟りの高低はあれども、善を悟っているためにみずからの生命が蛍光灯のように発光しているからです。

だから影がない。

一人一人の霊人がみずから発光しているのです。

こういった霊人には、波長同通の法則によって悪霊は憑依できない。

みずからの生命が蛍光灯のように発光するには、神の心をみずからの自力で悟るか、あるいはその神の心に照らして反省するか以外にはない。

悪霊に憑依されるには、憑依されるだけの本人の心の汚れが、悪霊をみずから呼び込んでいる。

みずからの心の汚れが悪霊を呼び込んでいるわけですから、自己の生命を悟りと反省によって光らせる以外にはない。

悟りもなく反省もないために心が黒く汚れている。

その汚れが悪霊をみずから呼び込んでいるわけですから、反省によってその汚れを取り去るしかない。

心が真っ黒けのままで都合よく悪霊だけを取り去ろうとする「手かざし」は、たとえ一時的に取り去っても、心の汚れはそのままですから、イエスが除霊をしようが、高橋信次が除霊をしようが、またすぐに同じ悪霊の憑依を受けるということです。

手かざし系の背後にいる悪魔は、その手口として、あらかじめ弱い悪霊を付けて病気にしておいて強い悪霊がその弱い悪霊を追い出す。

すると確かにその時には弱い悪霊が肉体から出るために一時的にその病気は治癒するように見えます。

治癒すれば、それゆえにその宗教に入れ込んでしまうわけですが、悪魔の信者増加作戦、換言すれば地獄に引きずり込める人をそうやって意図的に増やしています。

本人からすれば病気さえ治ればいいわけですから、その病の弱みをもっていれば、そこをつかれます。

病気が治るという利益だけを得んとしているがゆえに、そこをつかれて肉体ではなく、生命が餌食になってしまう。

単に強い悪霊が弱い悪霊を追い出しているだけの話なのですが、病気の治った人は、それで入れ込んでしまい、増々より強い悪魔の餌食になってしまい、以前よりも重い病になったりします。

そうやって狂った団体が増加していくわけですね。

安易に病を治すという利益だけを得んとしたり、救いを内に求めないで外の手かざしに求めんとしているがゆえに悪霊の餌食となる。

神の心とその悟りによってしか悪霊は除霊できません。

内なる光によってしか払えないのです。

イエスでも高橋信次でも除霊はできないのです。

彼らが神の光で一時的に悪霊を払っていたのは、あくまで真理に導くための手段として除霊をしていました。

除霊そのものは真理に導く目的のための手段であって、この手段に過ぎない手かざしを目的としているのが、手かざし系の宗教です。

真理が目的であり、物質は手段です。

真理が目的であり、手かざしは手段です。

手かざし系の宗教が間違っているのは、この手段(物質)を目的としているからです。

これは神の体を拝んでいる偶像崇拝と同じです。

神の心が「」であり、霊能力は「」で天地一体です。

悟りが「」であり、治癒は「」で天地一体です。

生命が「」であり、物質が「」で天地一体です。

霊能力信仰も手かざしも、どちらも「」を「」にしているから間違っていると言えます。

神への信仰と悟りによって生命が進化向上すれば、これを原因(神の心)として結果(神の体・物質)霊能力が発現したり、生命が発光しますから悪霊が取れて、病気が治ったりします。

この御利益や物質は、目的にもならず、否定もできない。

物質宇宙の物質は目的にもならなければ、さりとて物質宇宙そのものを否定してなくすこともできない。

目の前の宇宙をなくせますか?

なくせない。

これが物質と御利益、欲望や霊能力の捉え方です。

目的にもならず、否定もできず、目的と否定の両極端の中道が悪に対する適切な所見であり、この時、悪は微塵も存在していない事実が分かります。

欲望や霊能力、権力や利益は、単に最も低い善に過ぎず、悪ではない。

両極端の中道に入った時、すべては善となる。

霊天上界だけが善一元即多元なのではない。

この世そのものも善一元即多元であり、微塵も悪は存在していない。

これを万物肯定の悟りという。

悪とは低いものや価値を軽蔑したり、高い価値と低い価値を比較した時、生じてくるものであり、この世はあるがままの状態の時、善一元即多元であり、一切即善です。

あの世にもこの世にも神の造られし世界に悪は微塵も存在していません。

ただ人間が未熟なためにそれがそのまま、神の造りしまま認識できないだけです。

この霊的未熟から本来存在していない悪が現象化してくる。

高橋信次氏時代のGLAでは、「多次元世界」と「輪廻転生」を主に霊能力の側面から説きました。

霊能力は「」であり、物質ですから、神の体の側面から説いたのです。

本来は、神の心の側面から説くのが筋です。

かつて古代ギリシャでは、デルフォイのアポロン神殿に掲げられた「汝自身を知れ」という格言がありました。

これはソクラテスの名言とも言われておりますが、現代でも、また未来でも黄金律です。

永遠に変わらないのです。

生命の根源的本質には神の存在があり、すべてのすべてが宿されています。

人間とは完全の種子を宿した霊である : シルバーバーチ

神を知るとは、すべてのすべてを知るということですが、その神は一人一人のただ中に在る。

汝自身を知れ」とは、汝自身のただ中に在る神を知れ、すべてのすべてを知れという意味です。

完全なる神の心を知れ。

悟りとは真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎

では我々人類は、わがただ中に在る完全な善、完全な正義、完全な愛、完全な美をどうすれば悟り得るのか?

肉体人生のわずか80年で完全な善を、すなわち自己の真の本質を悟り得るであろうか。

そのような者が、かつていたであろうか。

過去・現在を通して一人も完全な正義、完全な愛、完全な善を説いた者は存在していないし、今後の未来でもいない。

もし死後の世界を否定すれば、肉体人生80年で死を迎え、我々は完全な正義、この自己の本質には到達し得ない。

80年の有限の人生観では、我々は自己の本質には到達し得ないということだ。

汝自身を知り、真正の自己を知り、完全な善を知るためには、我々は永遠のタイムを必要とする。

神の善が目的というならば、また宇宙が神の心を知る永遠の学校であるというならば、有限の人生観は取れない。

80年の有限の人生、この肉体観では自己の本質には、なんぴとも到達しえない。

80年で完全な正義は悟れない。

神の正義が目的であり、これが真正の自己であり、これを悟ることが人生の意義であるというならば、永遠の人生観しか取れないし、我々に選択の余地はない。

永遠のタイムがなければ、我々は完全な正義、この真正の自己には到達し得ない。

多次元世界」とは、あの世のことであり、永遠の世界を意味している。

多次元世界」が在るということは、あの世が在るということであり、それは取りも直さず我々人類は永遠に生きていく存在なのだということだ。

人間を肉体と定義して人生を80年と見て、その80年以内に完全な正義を悟れと言われれば、それは不可能。

しかして永遠に生きていく存在が人間であるならば、完全な正義を悟ることは可能。

真正の自己に到達することが可能な人生観こそが、永遠の霊的人生観ということだ。

神の心と善が、それを悟ることが、我々人間の共通の目的であるならば、有限の人生観は取れない。

有限の人生観では完全な正義を悟ること、すなわち真正の自己を悟ることは不可能となる。

しかして永遠を生きるならば可能です。

しかして「多次元世界」が在るということは、人類は等しく永遠を生きていくということであるから、この時にのみ神の完全な善が我々の目的となる。

しかして永遠に生きるとしても地上への誕生が一度切りであるならば、その一度の人生で完全な善を悟ることはできない。

輪廻転生」を否定するのは勝手ですが、「輪廻転生」を否定するということは人間は一度しか地上に生まれないということを意味する。

そのたった一度の人生で完全な善、この真正の自己を悟ることもまた不可能。

様々な異なる時代、異なる各地域、異なる各環境に生まれ変わり、様々なことを経験していかねばならず、そういった経験を積まずして完全な正義には到達し得ず、真正の自己には到達できない。

善や正義が目的と言いつつ、その完全な善を一度の人生で悟れる者など存在していない。

だから「輪廻転生」が説かれてきた。

生まれ変わりなくして、なんぴとも自己の真の本質、この完全な善である神の心には到達できない。

多次元世界」という永遠の世界を説くだけでは片手落ちです。

永遠に生きると同時に、様々な時代や地域に生まれ、様々な環境や人生経験を得なければ、我々は真の自己には到達し得ない。

GLAでは「多次元世界」と「輪廻転生」を神の体(霊能力・地)の観点から説いたであろうが、神の心の観点からも説かれなければならない。

神の心、この完全な正義、完全は愛、完全な善、これが宿っている存在が人間であるから人間を神の子と言う。

そしてこれを悟ることが人類普遍の人生の意義であり、そのために神の心を学ぶ学校として大宇宙を神は創造された。

ならばその完全な善を悟るためには永遠を必要とし、これは多次元世界として潜在意識に永遠の世界として在る。

そして永遠だけではなく、各時代、各地域に生まれ、自己を磨き、自己を知る場として大宇宙と自然界があり、「輪廻転生」をしていくことによってのみ、神の完全な正義を知ることが我々人類の永遠の目的である事実が首肯せられる。

悟りとは真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎

この西田哲学で言われている悟りが目的ならば、「多次元世界(永遠)」と「輪廻転生」がなければならぬ。

多次元世界(永遠)」と「輪廻転生」なくして、なんぴとも真正の自己、生命の根源的本質、神の心そのものに我々は到達できないということだ。

これが神の心の方面からも説かれなければならない「多次元世界」と「輪廻転生」です。

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