2017年07月19日

アンタッチャブル 8

神への信仰と悟りによって生命が進化向上すれば、これを原因(神の心)として結果(神の体)霊格が上がります。

霊格が上がるほどの悟りを持てば、これを原因として結果、偉大なる真理を説いて、それが有名な過去世ともなる。

霊格も過去世も共に結果(神の体・物質)ですから適切に説いても、それは方便の善となります。

結果に比喩した善、物質に比喩した善、自我に比喩した善、すなわち方便の善です。

方便の善の有効範囲は「有限」であり、これを逸脱すれば、それが地獄界の創造原因になる。

従って方便の善に過ぎない「霊格」や「過去世」は、それは目的にもならず、さりとて否定もできない。

目的と否定の両極端の中道に入るのが適切な捉え方です。

この「霊格」を目的として無限化し、救世主宣言をしたのがキリスト教のイエスであり、方便の善を逸脱している。

あの世の地位を振りかざしたわけですね。

だからこの宗教は無意味な個人崇拝に耽り、狂信者と盲信者を大量生産することになる。

救世主も結果であり、原因ではない。

救世主信仰とは、神の体(結果)を拝んでいる「偶像崇拝」に過ぎない。

救世主信仰とは、神の体、すなわち物質を拝んでいる「偶像崇拝」ですから、必ず物質の属性の通り「矛盾」が出てくる。

その救世主に頼れば、救われるという「矛盾」である。

あたかもその救世主に頼れば、さながら万能の特効薬を駆使したかのように世の矛盾と罪悪は払われ、自動的に仏国土が作られるといった妄想に耽ることとなる。

悟りも反省もないのに救済も仏国土もありはしないにも拘わらず、救世主に頼れば救われるとする妄想と矛盾に耽ることになります。

人を救うために救世主信仰を説いていながら、逆に救われない人間を作るという「矛盾」である。

結果は物質の属性を有しているために、こういった「矛盾」が出てきます。

悟りも反省も自力であり、そのお偉い救世主さまとやらが、代わってしてくれるわけではない。

自分の悟りは自分で磨くしかなく、自分の罪は自分で反省するしかない。

真理は自力です。

ただこの自力を実践すれば、なんぴとも地獄界に堕ちることはない。

救世主に頼れば、自力で悟りを磨かず、自力で自己の罪を反省せず、ただただ救世主に頼ろうとしているため逆に救われない人間を多く作る。

救世主信仰とは、他力信仰に近い。

キリスト教的な救世主信仰で人が救われることはないが、仏教的な悟りと反省の自力の道は万人を救い得る。

救世主信仰とは、すなわち他力であり、悟りと反省の道は自力である。

他力で救われる者はいない。

霊格」は結果であり、「救世主」も結果である。

過去世」も結果であり、適切に説かれる限りにおいて有限の善としか認められない。

目的にもならず、否定もできない両極端の中道が正しい捉え方です。

すなわち「霊格」にしろ、「過去世」にしろ、「救世主」にしろ、すべて結果(神の体)ですから、目的としてはならず、さりとて否定をしてもいけない。

霊格」を目的とすれば、それは物質を目的としている者と変わりませんから、高い霊格をもっていれば、それで尊敬し、低い霊格ならば、逆に軽蔑するという心の動きで出ます。

有名な過去世も同様です。

これを目的とすれば、有名な過去世で尊敬し、有名でなければ軽蔑すると言った神の体(結果・物質)を標準とした苦楽を作る心の動きを示すことになる。

この尊敬と軽蔑は共に物質に人心を誘導している誤った考えです。

物質(霊格・有名な過去世・救世主)で尊敬したり、軽蔑したりしている心の動きですから、これは富を基準に富裕層を尊敬し、貧しい者を軽蔑すると言った心の動きと変わりません。

超能力をもっていれば尊敬し、もっていなければ軽蔑すると言った超能力を基準とした苦楽の動きと同じです。

救世主ならば尊敬し、そうでなければ軽蔑するといった物質を基準とした心の動きと同じです。

これは神の心に導いているのではなく、神の体に導いている。

この人心の動きに導くのは誤り。

霊格・過去世・救世主・超能力、富の多寡等々、目的とすれば、そうなる。

ではすべて否定すればいいのかと言えば、そうでもない。

否定をしてもならない。

これは悪の問題そのものと言えますが、どうしても目的とするか、否定するかの両極端に偏ります。

富を目的とすれば守銭奴であり、では否定すればいいのかと言えばそうでもない。

物質は有限として我々の眼前に永遠に神は示されているはずです。

目的として無限化してもならず、さりとて否定して「無し」として扱ってもならない。

物質の属性の通り有限の範囲で認めるしかない。

生長の家でいう無功徳・無所得・無所有たるものは、利益を否定している点、方便の善です。

統一(神の心)と矛盾(神の体)を、まだ自我で切っている。

現実そのままが真理である : 西田幾多郎

目的と否定という両極端の中道に入るのが、物質の適切な捉え方です。

結果を目的としている者は、物質を目的としている者と変わりませんから、必ず「矛盾」があります。

神の心の実質で尊敬しているのではなく、霊格や有名な過去世、救世主や富の多寡で尊敬している。

これは地位や名誉で尊敬したり、軽蔑したりする者達と変わりません。

神の体で尊敬したり、軽蔑したりしているため「偶像崇拝」と言えます。

あの世の霊格や過去世ですら、偶像崇拝の道と通じる道がある。

だから信次ワールドは危険なわけです。

霊格があるということは、神の心を基準とした公平な多次元世界が存在することを意味しており、過去世があるということは、輪廻転生があるということを意味しています。

多次元世界は、神の心を基準とした公平な世界の実在を意味しており、輪廻転生は一度切りの人生では、自己の完全な本質に到達し得ず、各地域と各時代に生まれ変わって修行をしなければ、自己の完全な本質に到達し得ない具体的な修行としての事実を意味しています。

GLAでは霊格と過去世を吹聴し、これによって尊敬したり、軽蔑したりする者達を多く作っていました。

結果、この物質で苦楽を作っていた。

しかも高橋信次氏の霊格と過去世の的中率は、4割ほどだったそうであり、4割ならば野球で言えば4番打者です。

逆から言えば6割は、嘘だったわけであり、その的中している4割も、第三者が確認も検証もできません。

本人だけが知っている。

あれだけの霊能力を誇っていた高橋氏にしても4割ですから、言えることはこの世の人間が霊格や過去世を吹聴しない方がいい。

むしろ霊格や過去世という結果、この物質に人心を誘導する危険性やリスクの方が高いということです。

アンタッチャブルとは、少なくともこの世の人間は霊格や過去世に触れない方がいいということです。

霊格や過去世を否定しているわけでもありませんが、少なくともこの世の人間は極力触れない方が賢明だと思います。

霊格も過去世も、実は確かに分かる部分もあるのですが、それは第三者が確認も認識もできないものです。

霊格も過去世も結果ですから物質です。

将来的には、霊格で尊敬したり、有名な過去世で尊敬したりしておりましたので、いずれその霊格と過去世を金銭で売買する不届き者が出てくる可能性がある。

これは非常に危険なことです。

霊格と過去世は、この世の人間は振れない方がいい、アンタッチャブルな側面があります。

ただあの世の諸神霊が語る分には、この限りではない。

つまり霊格や過去世というのは、諸神霊が主張する分には問題ありませんが、この世の人間が霊格認定や過去世認定をしますと問題が出てくる。

またたとえ諸神霊が語る霊格だの過去世だのでも、あくまで方便の範囲でしか認識を許されない。

目的としてもならず、さりとて否定をしてもならない有限の範囲への認識です。

これほどきわどいものなのです。

単純に霊格と過去世を振りかざして喜んでいた者がいたようですが、それは人心を物質(結果)に誘導する非常に危険な行為なのです。

霊格と過去世は、エマソンが主張しておりましたように目的と否定の両極端の中道に入るのが、正しい認識の仕方です。

霊格と過去世は、まったく触れてはならないわけでもありませんが、触れすぎると魂に危険が及ぶアンタッチャブルな領域があるということです。

諸神霊が語る霊格や過去世ならば、それは諸神霊である限りにおいて100%、正しいと認識しても構わないわけですが、それでもこの世の人間は、両極端の中道に入らなければならない。

霊格や過去世よりも、真理の実質と内容の方が遥かに重要な視点だということです。

これがアンタッチャブルです。

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