2017年07月20日

「一即多、多即一」の多次元世界 2

仏教では、三界は唯心の所現、心外無別法と言います。

天界・現界・地獄界の三界は、ただ心のあらわれであり、心の外に別に法なく、存在なし。

我々の心と離れて何がしかのものが存在していたとしても、それは我々の心とは没交渉のものであって実在とは認められない : 西田幾多郎。

空間的には、

見られる全世界(客観)は、見る者全人類の心の世界(主観)であり、主客は合一しています。

心が良くなれば、世界も良くなり、心が悪くなれば、世界も悪くなる。

主客は合一しているからです。

心とその中心にある神の心を無視して悟らず、世界(客観)が良くなることはない。

世界と存在を良くするのは、一人一人の心であって富ではない。

富を追えば追うほど世界は悪化していくが、心を知れば知るほど世界は、その知った分だけ良くなる。

富は相対的なものであり、それを追えば追うほど、その相対性から次に対立と矛盾が生まれ、その対立と矛盾から様々な悪が現象化してくる。

その富を無限に追えば、悪も無限化されて現象化してくる。

その無限化された悪を克服できるほどの悟りを有していれば、それも霊的な修行になるのかもしれませんが、克服できる者ばかりではありませんから克服できなければ、地獄に堕ちて天地が分かれる。

また大宇宙を見れば分かるように、物質は有限であり、無限化された悪を神は許容しておられない。

富を目的とした人生観は、悪を無限化します。

無限化された悪を神は許容しておられませんので富を目的とした人生観は明らかに間違っています。

また富を目的とし、無限に追いますと悪もまた無限に現象化してきますので、それを克服できない者も当然、出てきて天地が分かれます。

富を目的として天地が分かれるということは、富は我々の目的とはならないということです。

富そのものが天地分離しております。

富はあの世の天に持って帰れません。

天地を分離させるものは、我々の人生の目的とはならない。

永遠に生きる我々神の子の目的とすべきものではない。

富や地位はあの世の天に持って帰れませんが、神の正義や善を抱いた心はあの世の天に持って帰れます。

何故、かつての歴史上の偉人や天才が善や正義、愛や叡智を目的としてきたか?

それはこの世を良化するだけではなく、その価値はあの世にそのまま持って帰れるものだからです。

正義や善、愛や叡智と言った価値は、「永遠なるもの」なのです。

天地一体の価値に生きる者、これを賢人と言う。

賢人はあの世にもこの世にも持って帰れる価値を目的とするが、凡人はあの世に持って帰れない価値を有難がって目的とし、あの世に持って帰れる心を失う。

賢人は天地一体の価値を目的とするが、凡人は天地が分離した価値を目的とする。

富や地位、名誉や国益、肉体や物質は、あの世の天には持って帰れない。

すなわち天地が分離している。

天地の分離が、人類と世界の不幸を生み出しているものですから、天地の分離は神意にあらず。

宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎

神の心が「天」であり、神の体が「地」で永遠に天地一体である。

この構造と仕組みは永遠に変わらず、不変である。

この宇宙の構造と仕組み通り生きられれば、これ仏教的には如来であり、宇宙即我である。

天地を一体化させる価値が神意であり、天地を分離させる価値が悪であり、世界と人類の不幸を生んでいる。

偉人が偉人であるのは、ひとえに大宇宙、すなわち神そのものが決めている。

偉人や価値の高さは、人間の多数決で決めるものではなく、神御自身、大宇宙御自身が決めておられる。

天地一体の大宇宙の構造と仕組み通りに生きた者を偉人と言う。

善は天にも地にも通じ、富は地に通じて天に通じない。

叡智は天にも地にも通じるが、地位名誉は地に通じて天に通じない。

愛は天にも地にも通じるが、肉体は地に通じて天に通じない。

天地の分離が人類の不幸の原因ですから、物質や富は我々の永遠の目的とはならない。

では人類の幸福の道とは、明らかである。

天地一体の価値に生き、天にも地にも通じる価値を目的とするということだ。

かつての偉人と天才は、すべてこの道を選択し、その通りに生きた。

あの世の天に、そのまま持って帰れる価値に生きたということだ。

いくら富に執着したとて、その富を天に持って帰ることはできない。

いくら肉体に執着したとて、その肉体を天に持って帰ることはできない。

天に持って帰れないもののために生きた時、この世が不幸となる。

天に持って帰れるもののために生きた時、この世が幸福となる。

あの世、いわゆる霊天上界の存在を不動にしなければならない理由もこれです。

あの世がないと勝手に思っているから、天に持って帰れない価値を求め、世界は不幸となっている。

あの世があると思っていれば、あの世に持って帰れる価値、いわゆる善や正義、愛や叡智に生き、この世は幸福となる。

あの世の存在の不立証こそが、この世の不幸の原因の一つ。

あの世の存在が当然となれば、あの世に持って帰れる価値のために生きるでしょうから当然、正義と善が目的となり、その悟りの分だけの幸福がこの地上に実現する。

そうせよ、と天地は教えている。

天地一体の構造と仕組みを通して神は我々人類に生き方を教えてくれている。

神の心の天と神の体の地が分離した時、この世界は不幸となり、天と地が一体化した時、全世界は幸福となる。

既に霊界人口500億人すべてを幸福にしている世界が在る。

これが霊天上界であり、これは一人一人の表面意識の奥、自我の奥、現象我の奥、すなわち潜在意識に在る。

あの世だの多次元世界だのといった世界は、我々の心と離れて存在している世界ではなく、各個人の自我の奥、潜在意識に永遠に在る。

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ : ルカ17-21

多次元世界には500億人の霊人口があり、その500億人の霊と多次元世界は、すべて各個人のただ中に住している。

500億即我。

また人類70億人には一人一人守護霊なるものがいる。

守護霊とはその者の良心のただ中に在って、その者の善なる心を指導している存在です。

ふと、良い考えが浮かぶ、ふと、やさしさがこみ上げてくる、と言ったこの「ふと、浮かぶ」と言った内容でその者の善なる思いを指導している。

ではその70億人の守護霊は、どこにいるか?

幽界から宇宙界に至る多次元世界の各世界のどこかに必ず存在している。

この世の人類70億人の生命の本質とも言える守護霊は多次元世界のどこかに存在するが、その多次元世界は一人一人のただ中に存在する。

人類とは自己の外に存在するのではなく、一人一人のただ中、潜在意識に存在している。

70億人即我、人類即我。

そしてそのすべてを生かしている神は我々の生命の本質、その中心に永遠に着座している。

神即我。

霊界人口500億人もこの世の人類70億人も、またそのすべてを生かしている神も、すべて一人一人の生命のただ中に永遠に存在している。

かつてソクラテスは、「汝自身を知れ」と言った。

その「」の正体とは、これを言う。

」の中にこそすべてのすべてが在る。

そしてそのすべてのすべてを知れと言った。

神の心も人類70億人も霊界人口500億人も、また地獄界すらもすべてを知れ、と。

それはすべて我々のただ中に永遠に在る。

地獄界すらも我々のただ中、潜在意識に存在している。

これをすべて知った者を「全知全能」と言い、この代名詞がゼウス神であることは言うまでもない。

多次元世界は一即多、多即一の公理に貫かれている世界であり、華厳経の一即一切、一切即一とこれは同じです。

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界と悟りの各段階はあれども、神の存在という一点「一」でくくられている。

この「一」を平等と言う。

幽界人の本質にも神の存在は在り、如来界の神霊の本質にも全く同じ「一」なる神の存在が在る。

幽界から宇宙界まで一点「一」でくくられて平等ではあるが、その同じ「一」なる神の心の悟りには段階があり、上層霊域の霊人は、下層霊域の霊人よりもその「一」なる神の心を悟っているがゆえに上層霊域にいる。

同じ心が宿ってはいるのですが、その同じ心を悟る点において上層霊域の霊人は良く努力をし、自己を磨き、神の心を良く悟っております。

それを「一」なる神の心を基準に公平に評価すれば、結果として幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界の評価となる。

ここで「一」から「多」が展開する。

平等なれど差別、差別なれど平等、一即多、多即一、平等即差別が永遠の公理である。

実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである : 西田幾多郎

一即一切、一切即一である。

見られる全世界は、見る者全人類の心の世界である。

これは主観が客観を可能にすると言ったカント哲学と同じです。

心の主観が、世界という客観を可能にし、心が世界を創造する。

見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心が創造した世界です。

見られる如来界というその世界は、そこに住む如来の心が創造した世界です。

地獄界も同じ。

無間地獄というその世界は、そこに住む無間地獄界人の心が創造した世界である。

阿修羅地獄というその世界は、そこに住む阿修羅の心が創造した世界である。

この世も同じ。

現在の腐った世界は、その世界に住む人類の心が創造した世界です。

主観が客観を可能にする。

心が世界を創造するということです。

禅の坊主は、これを「無一物中無尽蔵」と言った。

」から一切を生ず。

方便的に言えば、霊天上界とは善の認識が客観化された世界であり、地獄界とは悪の認識が客観化された世界です。

そして一言「善」と言っても「無限」ですから、それだけの客観化された世界が上方に向かって展開しているはずであり、霊天上界は単に宇宙界で終わっているような世界ではなく、更に上方に向かって無限に続いている。

地獄界も同じ。

一言「悪」と言っても、ある意味無限ですから、それだけの客観化された世界が地下に続いているはずであり、最深部になると諸神霊は、深海魚の世界と言っていたと思いますが、暗黒の世界となっている。

霊天上界もヤコブの梯子のように無限に上方に向かって続いている。

多次元世界も大宇宙もすべて神の心が客観化された世界であり、一言神の心と言っても無限ですから、それだけの客観化された世界が無限に上方に向かって続いている。

この点を大川さんのところでイエスも言っていましたね。

私は今、宇宙界にいるけれども、私の霊域でも神が何十次元にいるのかは分からない。

神は70次元にいるかもしれないし、100次元にいるかもしれない。

それは私の霊域にいても分からない。

神の光の世界は、上方に向かって無限に続いていることしか分からない。

ただ神の心を悟れば、悟るほど光が強く大きくなっていくことは間違いない、と。

こういう言い方は、まだ神の光を基準とした言い方ですから誤解を招く可能性がある。

神は80次元にいるとか120次元にいるとか言った存在ではなく、わがただ中に永遠に在る。

80次元の存在であろうが、100次元の霊存在であろうが、言えることが一つあります。

その100次元の霊存在であろうともその生命の本質は、我々と直ちに同一である点は断言できるのです。

ただ70次元だの100次元だのと言った霊存在の悟りは、我々人間が悟ることができるような悟りではないでしょうね。

だからと言って切られている存在ではない。

下から上は分からないけれども、上から下は手に取るように分かる。

こういった関係でしょうね。

神の心を悟れば悟るほどにその能力が増す。

神は自己よりも下の霊存在を手に取るように知り、理解しているのでしょう。

そのすべてのすべてを知り尽くしている存在がある。

人間に分かるのは、ここまででしょうね。

そういった存在を神というのでしょう。

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posted by 管理者 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 神理
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