2017年06月17日

偶像崇拝 1

偶像崇拝」の禁止とは、よく中東の神が主張する教えですが、これが十分理解されていないようです。

神棚や仏壇を、わざわざ壊しにやってくるクリスチャン、バーミヤンの石仏遺跡を破壊するイスラム教徒等を見ても、その理由が、いつも「偶像崇拝」をしているからだと主張します。

偶像崇拝」が分かっていないわけです。

中東の神と言えば、GLAの高橋信次氏ですが、GLA時代にもよく言っていました。

創価学会の会員から、

今、我々の教団で問題になっているのは、板曼荼羅が本物か偽物か、ということですが、あなたはどう思われますか。

バカ言うんじゃない。

板であろうが、紙であろうが、そんなことは関係ないのだ。

大宇宙や自然界という神の神殿において、人間の思うことと行うことが重要なのであって、板曼荼羅であろうが、宗教グッズであろうが、仏像銅像、ペンダント、お札、お守り、このようなものにご執着なさることは、おかしいことです。

こんなものは神の思いとは、全く何の関係もないことです。

板曼荼羅なんて、こんな人間の作ったもの、信じません。


なんて言っていました。

人間の作ったもの、すなわち偶像なんて信じません。

自然界は法のあらわれである。

人はこの法をもって思いと行いを正せよ ; 高橋信次


大宇宙や自然界、あるいは神の心という神が造ったものだけを拝めということですね。

この心に反した時は、

心のぉ、底からぁ、詫びなさい。

反省すれば、神さまは偉いから許してくれるんです。


そしてその反省する上でもってきた法が、釈迦の八正道でした。

宗教グッズをつくる宗教家は、よくいるもので、GLAの時は、確か批判していたはずです。

高橋信次氏は、町工場のおじさんでもありますので、

私の工場で作れば、原価200円か300円で作れるんですが、そのペンダントをある宗教団体では、3万円で売ってるんですよ。

ぼろい商売です


と批判していました。

自分のところで作って売りたかったのかどうか知りませんが、そんなことはないだろうと思いますが、宗教グッズ等、物質への人心誘導は批判していた。

だから高橋氏時代のGLAでは、宗教グッズなどは一切なかった。

御本尊すらなかった。

ただ宗教法人法で何も知らない役人が、御本尊の設置をどうたら言っておりましたので、適当に仏像のようなものをもってきて、適当にそのお役人に見せて、見せた後は、ぶっ壊していました。

確かGLAではそうだったはずです。

物に依存させなかったわけです。

ちなみにGLAの御本尊は、「大宇宙・大神霊・仏」です。

大神殿、大仏閣にも批判的な人でした。

創価学会などは、会員から集めた300億円のその利息で今、山梨に大神殿を建てようとして相談している。

自然界という神の神殿の上に、なお屋上屋を重ねるように自然界の神殿の上に、更に神殿を建立しようとしている。
」、と。

私はゼウス神から神殿を造り、神殿芸術をつくれと言われていますが、高橋信次氏が批判していたのは、自己の教団は、こんなに凄いんだ、偉いんだと言った威容を誇るような、教団の勢力を誇示し、威圧するかのような汚い心で作る神殿を批判していた。

大体、宗教団体というのは、そういったのが多いですからね。

だから高橋氏時代のGLAでは、大神殿や大仏閣なども造らなかったはずですね。

あくまで人間の思うことと行うことが重要なのだ。

正法とは神の心とおのれの心を同じくすること、ただこれだけであり、人間ですから外れる時もある。

この時に八正道をもってきて、思うことと行うことを点検させていた。

これが高橋信次氏時代のGLAだったと思います。

偶像崇拝」というのは、元々が彼の教えであり、これが現代でもよく分からないものになっている。

一度記事にしたことがあると思いますが、整理しておきましょう。

偶像崇拝」とは、この宇宙論(神の存在)。

物質宇宙は神の表現体であり、神の体です : 高橋信次

神の心を拝むことを「信仰」と言い、神の体(物質)を拝むことを「偶像崇拝」と言う。

過去・現在・未来の三世を通して出てくるすべての悪の源、その悪の根源の原因がこの「偶像崇拝」です。

だから中東の神は禁止してきた。

実際は禁止しなくてもいいのですが、信仰の欠如を原因として結果、偶像崇拝が現象化しますので信仰がきっちりとできていれば「偶像崇拝」を、あえて戒律のように禁止する必要はない。

ただ現代でもそうですが、この「偶像崇拝」の意味が分かっていないがゆえに禁止してきたのでしょう。

信仰」と「偶像崇拝」は、コインの裏表です。

神の心と神の体が裏表というのとこれは同じです。

偶像崇拝」をすれば、信仰はなくなり、信仰があれば原則、「偶像崇拝」はない。

信仰の欠如は当然、自我を標準とした自己標準となる。

自我は、知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な作用であり、内的に自我を主体としますと外的には相対的なもの、いわゆる物質に支配され、その物質の属性のまま生きていかんとします。

自我の相対性と物質(神の体)の相対性がリンクするわけです。

物質はイコール「時空」であり、時間と空間は相対的であるとアインシュタイン博士も相対性理論で主張されたはずです。

物質、つまり神の体はそれだけですと絶対的なものとは言えない。

信仰なく、自己標準で生きますと、この大宇宙では必ず神の体(物質)の方面の支配を受けます。

この神の体の方面の支配を受けた状態を「偶像崇拝」というのです。

宗教団体ではよくありますが、この「偶像崇拝」の状態は、個人崇拝の生き神信仰で出ます。

自我が絶対化されているためです。

神への傲慢とは、相対的なものを絶対化すること、これを神への傲慢と言います。

自我という相対的なものを絶対化する生き神信仰も神への傲慢の一種です。

先に述べた宗教グッズの売買も「偶像崇拝」であり、自我を絶対化した教祖は、神の体に支配されておりますので、物質を拝ませ、宗教グッズを販売したり、板曼荼羅だの銅像だのお守りやお札等々を売り始めます。

御利益信仰とは、この宇宙論(神の存在)。

神への信仰と悟りによって生命が進化向上した時、これを原因(神の心)として結果(神の体)あらわれる物質(神の体)、これを宗教的には御利益と言います。

神の体を拝むことを「偶像崇拝」と言いますから、物質は御利益を意味しています。

従って「偶像崇拝」とは、別の角度から言えば「御利益信仰」とも言います。

神への信仰によって生命が進化向上した時、これを原因として結果、病気が治ったり、出世したり、所得が増えたり色々と影としての御利益が出てきますが、この物質、御利益(神の体・結果)を目的として祈願や成功哲学等々説いたりする思想家や宗教家もいます。

これはすべてその教祖が自我を絶対化して慢心したからであり、慢心したゆえに神の体に支配され、物質が象徴している御利益祈願をしたりするようになる。

神の体を拝ませており、人心を物質に誘導しておりますので、こういった宗教家は、早急に心を点検し、反省しなければ、とんでもないことになる。

また慢心した教祖は、相対的な自我が絶対化されておりますので、神の体(物質)の方面の支配を受けています。

物質の属性は「従性」であり、生命が「主」であり、物質は「従」ですから慢心した教祖は、自我が神の体の支配を受けて物質の属性を有しておりますので、物質の意味する従的なもの、いわゆる地位・名誉・有名人・著名人・職歴、学歴・富・国益・快楽・女・物量数量等、この従的なものを、やたら目的とするようになる。

神の体を「天」に置き、神の心を「地」に置けば、その瞬間、大宇宙(神)と切られ、啓示を受けられなくなって転落していきます。

神の体、つまり物質の属性は、それ自身「矛盾」を意味しており、思想や宗教では矛盾した思想や法となり、法体系の一貫性が失われていきます。

これもすべて教祖が慢心したからです。

神への慢心とは、相対的なものを絶対化すること。

相対的な自我を絶対化すること、これを慢心と言いますが、GLAでは、だから個人崇拝を厳しく戒めていた。

生き神信仰など言語道断。

自我を「天」に置き、神我を「地」に置いているからです。

大宇宙は逆です。

世界や文明が滅びる原因は、すべてこの神への慢心です。

相対的なものを絶対化しておりますので、この「偶像崇拝」は、神への傲慢とも言います。

だから中東の神は禁止してきたのです。

生命が進化向上すれば、それなりの富と国益が影として増加していきます。

この時、財界人ではこの利潤を最上位に置いた「偶像崇拝」にふけり、政治家ではこの国益を最上位に置いた「偶像崇拝」にふけります。

神の体とは物質ですから、御利益も相対的、国益も相対的、自我も相対的であり、これを最上位に置けば、これが「偶像崇拝」となる。

相対的なものを絶対化しておりますので神への傲慢とも言いますが、すべての文明はこの神への傲慢によって滅び去ってきました。

政治家・経済人・宗教家をよく見て御覧なさい。

すべて「偶像崇拝」を犯しているはずです。

偶像崇拝」が、悪であるという根拠も宇宙論。

神の心が「天」であり、神の体は「地」で永遠に天地一体です。

にも拘わらず神の体を「天」に置き、最上位に置いて神の心を「地」に置き、下に置いているから悪だと言っている。

大宇宙の示している道は、神の心が「天」であり、神の体は「地」です。

これを逆転させて、大宇宙と切断されているから間違っていると言っている。

大宇宙と切られている父無し子が、今の人類です。

大宇宙(神)と切られますと、すべての存在は悪となる。

正義が「天」であり、国益が「地」で永遠に天地一体です。

幸福が「天」であり、快楽が「地」で永遠に天地一体です。

神の正義を「天」に置き、神の体を「地」に置く。

神我を「天」に置き、自我を「地」に置く。

正義を「天」に置き、国益と利益を「地」に置き、生涯そう生きられましたら、これが宇宙即我です。

神我を「天」に置き、自我を「地」に置く、生涯そう生きられれば、これが宇宙即我ということです。

宇宙と一体化しているのです。

大宇宙、すなわち神こそが、我々全人類の普遍的な価値基準であり、善悪の判断基準です。

絶対的なものを「天」に置き、相対的なものを「地」に置く。

この通り生きられましたら、これ如来です。

人間だけではなく、文明全体も今後、すべてこの宇宙即我となる。

政治体制では、民主主義において人民共通の利益に基づいた国家契約となっており、「利益(神の体)」が「天」に置かれている。

社会主義でも唯物論で「物質(神の体)」が「天」に置かれている。

経済原理でも「利潤(神の体)」が「天」に置かれている。

全世界的規模で「偶像崇拝」が行われているがゆえに、人類のみなさんは危ないんじゃないの。

神の体は永遠に「地」であり、「天」ではない。

大宇宙は永遠に神の心が「天」であり、神の体は「地」で天地一体です。

これと逆をやっている。

これを大宇宙の構造と仕組み通りに戻す神の政治体制が、「神約民主論」ということですね。

世界の未来は大丈夫ですが、現代の人類が大丈夫かどうかは予断を許さない。

また本論まで行きませんでした。

この題はまだ続きます。


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2017年06月14日

「グレンフェル・タワー」で大規模火災

27階建ての高僧マンション「グレンフェル・タワー」で大規模火災です。

火災は、2階から最上階までの全フロアに及んでいるようです。

これですね。



39秒辺りからですが、まだ部屋に取り残されています。

スクリーンショット (1212).png

ライブ動画はこれです。

SKY FOX NEWS LONDON FIRE GRENFELL TOWER HIGH RISE Live Stream - Super HD

生きながらに焼かれています。

つい「火炎地獄」を思い出してしまいました。

神の光やそれに基づく霊能力を悪用した者達、いわゆる「手かざし系」で民衆を惑わした者達が堕ちる地獄です。

神の光の暖かさを誤認し、地獄の炎の暖かさを味わうわけです。

神の心への悟りもなく、その神の心に照らして反省もないのに悪霊だけを、都合よく取ろうとする御利益信仰にふけっていた者達ですね。

神理上は、神への信仰と悟りによって生命が進化向上した時、あるいは神の心に照らして反省した時、これを原因(神の心)として結果(神の体)、生命がみずから発光しますので悪霊がバリッと剝がれる。

悪霊がついていられなくなるわけです。

この除霊、この結果(神の体)だけを目的として手からビームか何かを出して除霊せんとする。

神の体、すなわち物質のみを目的として御利益信仰にふけってきたために火炎地獄に堕ちるわけです。

神の体を目的としておりますので「偶像崇拝」とも言います。

ただ除霊は結果ですから物質であり、有限の範囲で神理に導く手段として有限の範囲で行っている分には悪とはなりませんが、これを目的として、とにかく悪霊を払えばいいのだと無限化していきますと、ストーンと火炎地獄に堕ちることになる。

彼らの言い訳はイエスもやったではないか、高橋信次も除霊をやっていたではないか、同じことをして何が悪いと言いますが、イエスや高橋信次は、正法に導く目的のための手段として除霊をしていた。

悟りもなく、反省もないから生命が発光しておらず、生命から光の出ていない者達の悪霊を無理やり払っていた。

これは本来、邪道です。

しかしてイエスにしろ高橋信次にしろ除霊をすることはできない。

その者の心が善に覚醒し、みずからの生命から悟りと反省を通した光を出さず、真っ黒けのままの生命ならばイエスが除霊をしようが、高橋信次氏が除霊をしようが、また直ぐに波長同通の法則上、また同じ悪霊に憑依されます。

結局は悟りによってしか悪霊は払えない。

エクソシストなんてナンセンスです。

ただ結果ですから有限の範囲では許されている、ただそれだけの行為です。

エクソシストなんてのは。

除霊なんてイエスでも高橋信次氏でもできないということです。

食べ物にたかったハエを、あくまで一時的に神の光で払っていただけであり、除霊になどなっていない。

生命の匂いが悟りによって訂正されていない限り、またハエはいくらでも寄ってきます。

霊能力では、人を救えないという見本のような典型の能力が「手かざし」です。

それで救った思うならば、思う方が悪い。

神の体を目的とし、「手かざし」で大衆をたぶらかしておりますので、たぶらかしたのは自分たちなわけですから、自分たちがその間違いの反作用を受けずして誰が受けるというのでしょう。

こういうのは火炎地獄ですが、大川さんも言っていたはずですね。

確かにその手から暖かい光のようなものを感じるけれども、それは霊天上界の光ではなく、ジリジリと焦げ付くような地獄の炎の暖かさである、と。

その通りですね。

グレンフェル・タワー」の大規模火災で、つい不謹慎かもしれませんが、この「火炎地獄」を思い出した。

第二次朝鮮戦争のことが頭にあったからかもしれませんが、日本が焦土となる前にロンドンが焼かれている。

戦争とは大地を互いに焼く行為です。

他人事のように思えなかった。

今後、日本もあのように焼かれる可能性が増している。

今月の「6月25日」は、朝鮮戦争勃発の日であり、この前後が危険ですが、この「6月25日」という日付けは、あの高橋信次氏が死亡した日であり、同時に恐らくですが、大川さんが霊道を開いた日でもあります。

色々と因縁と言いますか、共時性を感じています。

6月25日」が、ハルマゲドン勃発の日にならないことを祈念しています。


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2017年06月12日

「一即多、多即一」の多次元世界 1

霊天上界である「多次元世界」の解明が、全人類幸福化運動、いわゆる「仏陀の意図と大法」の要である、と言ったことがありますが、これを総合的に説いていかなければならない。

GLA以降、多次元世界の全貌が大雑把にしろ説かれてきたわけですが、これを皮相的に捉えて霊的カースト制度であるとか、身分差別制社会の礎であるとか誤解されてきました。

誤解する原因は、その者の物質観(結果主義)です。

多次元世界を物質的、いわゆる結果主義的に捉え、それを目的化するような認識からそう批難する者もいる。

西田哲学で説かれている「一即多、多即一」は、過去・現在・未来を問わず、永遠に変わらぬ理法であり、実在の根本的方式です。

つまり今後も永遠に変わらないということです。

幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界の霊人は、すべて神の心を宿している点、永遠に「平等」ですが、この平等の神の心に万人が向かう時、その万人の努力は千差万別であり、同一の努力をする者はいない。

ある者は10の努力をし、ある者は50の努力をし、ある者は100の努力をする。

悟りにも努力に比例した相違があります。

しかしてそれはすべて一つの神の心から公平に評価されて行くべき世界が決まる。

これが幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界という結果となる。

この結果を目的化するのは「偶像崇拝」であり、菩薩の方が神界より偉いとか、如来の方が菩薩よりも偉いと捉えれば、それは堕地獄となる。

この多次元世界を、どうしても皮相的、物質的に捉える人がいるのですね。

この原因は主に4点。

一点目は、多次元世界の全貌は高橋信次氏が説いたであろうが、この世界を実在論から総合的に説いた法がなかった点が一点。

二点目は、純然たる地上人間の霊的未熟。

三点目は、この多次元世界を説いている者そのものが、この世界観を皮相的に捉えて慢心していった点が三点目です。

四点目は、別に困るわけでもありませんが、諸神霊の世界でそう誤解されかねないようなことを語る霊人がいたという点が四点目です。

この世の人間が多次元世界を霊的カーストや身分差別制社会、あるいは社会における階級制度のような前近代的な世界観として捉えてしまう理由は、この四点であろうと思う。

この多次元世界を説くのは仏陀の意図の神髄ですが、これを悟りの未熟なる者が説こうとすれば、堕地獄となる危険な世界観でもある。

悟りの未熟なる者をよせつけない世界観なのです。

これは霊道を開く霊的現象とよく似ていて、悟りが未熟なる者が霊道を開けば、すぐ魔にやられて地獄に引きずり込まれる現象と同じと言っていいでしょう。

あの信次ワールドが、無限とも言える魑魅魍魎、妄想やカルトを生むのは、元々が信次ワールドは、悟りの未熟な者をよせつけない世界観だからです。

それでも高橋信次の後継者と称して、それを説こうとすれば、妄想無限の世界を彷徨うこととなるし、なっている。

悟りの未熟なる者が、あの信次ワールドを説こうとすれば、十中八九妄想無限の世界を彷徨い、転落していくこととなる。

ちなみに私は高橋信次氏の後継者でも何でもありませんので誤解しないように。

後継者は、本人は否定しておりますが、大川隆法です。

多次元世界を説いて妄想世界に転落していくのは結局、それは生前の高橋信次氏ほど悟っていないからなのです。

だから説けないのです。

その不十分なところを完成的に説くために大川さんが出られたわけですが、

・・大川さん、もうちょっと真面目にやらんとあかんど

みたいなことをやっている。

これがまた多次元世界の誤解を生んでいるのです。

そもそもは本人が計画したのですけどね。

菩薩より如来の方が偉いとか、菩薩の方が神界より偉いと思っているかもしれませんが、それは「しかり、しかり、否、否」です。

神の心を基準として如来の方が菩薩よりも神に近い、あるいは菩薩の方が神界よりも神に近いと言えば、それは「しかり、しかり」です。

しかしてこれは結果主義(物質観)からの「しかり」です。

結果としてはそうだというに過ぎない。

原因を見れば違う。

これは方便であり、物のごとく有限の範囲で認識している分にはいいですけれども、本気で無限化すれば、その方便の無限化が、堕地獄を生む。

こう認識して慢心し、地獄に堕ちた方もいるようだ。

俺は偉い、お前は偉くない、偉くないんだから、偉い俺の言うことを聞け

と大威張りするのは間違い。

菩薩よりも如来の方が神に近く、偉いと言いますが、生命の本質を見れば、菩薩の生命の本質にも神の存在はあり、如来の生命の本質にも神の存在はある。

何の差異もありません。

全く同一同質同規模同量です。

この生命の本質を見性すれば、どちらが偉く、どちらが偉くないとはならない。

本質は何の相違もなく、同じですからね。

幽界人の本質にも神はあり、如来界の霊人の本質にも神は在る。

生命の本質を見た時、どちらが神に近く遠いというのはありません。

幽界人の本質も如来の本質も、直ちに神の存在を宿している点、永遠に平等であり、自他一体です。

大魔王の本質も大如来の本質も、直ちに同一であり、平等であり、これを自他一体というのです。

ここを見れば、どちらが偉く、どちらが偉くないというのは消滅します。

同じ神が宿っておりますから、平等であり、同じです。

その意味で「否、否」です。

この一点を否定すれば、一人残らずの全人類救済は永遠にありません。

神の存在なく、またないゆえに自他一体が成立していない生命の構造ならば、永遠に全人類救済も幸福もないということです。

今回はこの自他一体の永遠の根拠である神の存在、この絶対的権威の確立です。

ところがこの世の人間に誤解をまねくような発言をする諸神霊も一部いました。

バプテスマのヨハネは、私にはイエスの靴の紐をとく値打ちもないなんて言ってましたけれども、私はそこまで言う気はありません。

そこまで卑下する気は全然ありませんよ。

いくら仏陀の本体でもね。

そりゃ互いに肩をポンポンポンと叩いて、握手するぐらいの仲だとは思っております。

靴の紐をとく値打ちもないなんて、そこまで言う気はありません


なんてあの世で言ってました、高橋信次氏ですね。

俺は偉い、お前は偉くない、偉くないんだから、偉い俺の言うことを聞け

わかりやすぅ

初めの頃は頭に来たことも確かにありますが、でももう慣れた。

10年以上もひっつかれてりゃ、そりゃ慣れる。

悲しいかな、人間というのは何にでも慣れて順応していくのです。

悪に順応しろと言っているのではなく、個性としてはみな尊重されているのです。

こういった威張り方は、この世の人間は誤解しますが、有限の範囲では許されているのです。

これを頭にきたから否定しろと個性の否定をすれば、没個性的な人間ばかりとなり、それもまた神の心にあらずとなる。

だから、

そりゃ、あなたは宇宙界の霊人ですから偉いのかもしれませんが、では幽界や霊界の人達の心と何が違うのですか?

本質に同じ神の存在を宿している点、同じではありませんか。

神への信仰というならば、この地点から始めなければ嘘になるでしょう


と、言えば高橋信次氏も逆らえないのです。

しぶしぶと認めざるを得ないのです。

この「しぶしぶ」というところが笑えますが。

エマソンは、一人一人の個性は、すべて神のオリジナルであり、神のただ中にある多種多様な個性の、何にも代えがたい神の一表現であると言っていました。

西田哲学でも、全体主義のごとく個性を埋没させることが、神の心のかなっていることとは言われまい。

個人や民族、国家に至るまでその各個性を強化していく過程で神に向かい、全体が強化されることが神意であると説かれています。

自分らしさを失ってはならない。

自分らしさを失う者は、正直さを失うものである。

多次元世界を皮相的に捉え、認識すれば、霊的カーストとなり、前近代的な封建時代に戻ってしまう。

インドのカースト制度よりも酷いかもしれない。

多次元世界が説かれたからと言って、社会制度の中で多次元世界を普遍化し、社会制度化してはならない。

この多次元世界の解明は、歴史の究極目的の一事項であり、完全に理解できる者は今後もいない。

だから一歩一歩、正確に解明する歴史とせねばならず、またこの多次元世界はこの世では方便の域を決してでないがゆえに社会制度化してはならない。

あの世が幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界となっているのは、あの世では良心がむき出しの世界であるために神の善が正確に分かるからです。

神の善が正確に分かるがゆえに幽界・霊界・神界・菩薩界・如来界・宇宙界と正確な悟りの評価ができる。

ところがこの世は、その神の善を悟ることが永遠の修行となっており、この世ではその善が完全には分からないのです。

あの世のように神の善が、分からないのに菩薩だの如来だのと身分差別制社会のように制度化してはいけない。

宇宙は神の心を悟る永遠の道場であり、永遠の学校です。

心ある人でも自己の良心に問うて、これが善であると説いておりますが、それが本当に善であったと分かるのは死んだ後の話であり、生きているうちにその保証はない。

だから社会的に制度化して普遍化してはならない。

宗教団体の一団体が、一つの実験としてやる分には方便として許容される場合もあるかもしれませんが、社会制度としては認められない。

社会制度化すれば、時代が下ると共に菩薩の悟りをもってないのに菩薩だと吹聴し、如来の悟りをもっていないのに如来だと吹聴し、その制度から国民を抑圧する不届き者が出てくるのは予想できることです。

そういうものにしてはいけない。

ただ多次元世界の解明は、全人類幸福化運動の要であり、避けられないのです。

この多次元世界の正確な解明なくして、全人類の幸福は実現できず、仏国土も不可能となるのです。

その意味で多次元世界は、永遠の探究の対象世界です。

だから仏陀は、この多次元世界の全貌とその意味を説かれようとして生まれたのだと思っています。

その前段階として高橋信次氏が説かれたということですが、あれだけでは不十分なのです。

もっと実在論から総合的に解明され、説かれなければならない。

それを解明して説いていくのが、本来の幸福の科学の使命なのですが、何か本人はわかってないように見えますけどね。

ただ全人類幸福化運動というならば、この多次元世界の解明は必須です。

避けられないのです。

これは潜在意識(多次元世界)の全容解明ということです。

この多次元世界と地上で生命を通して一致した時にのみ仏国土は顕現し、この地上がユートピアとなり、全人類の幸福は成就するからです。

多次元世界が「」であり、地上世界は「」であり、これは理法的には本来、分かれておりませんが、この世では主観の領域でも客観の領域でも分かれているのです。

この「天地一体の悟り」が、仏国土顕現、地上ユートピア実現の基本です。

幸福の科学流に言うならば、あの世とこの世を貫く幸福です。

あの世の「」とこの世の「」が貫かれた「天地一体の悟り」です。

如来はみなこれを説けるはずなのですがね。


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