2018年02月03日

神の寛容性

GLAでは「心に正しぃーっという基準を持って生活することが重要」と説いていました。

心に正しいという基準をもっていなければ、狂っていくんです、と。

この正しいという基準とは、言うまでもなく神の心。

心に正しいという基準と物差しをもつことを「信仰」と言う。

正しさ、いわゆる正義とは神の正しさです。

自己都合や好き嫌い、快不快の自我に正しさはない。

自我は過去・現在・未来の人類を問わず、また救世主も庶民も問わず、その知識・思考・概念・認識・情操、すべて相対的な性質を有している。

自我に正しさはない。

正しさとは絶対的なものであり、相対的なものではない。

表面意識が悪、潜在意識が善、これを悟ったならば、悟りの境地に入ったと見て良い : 高橋信次

正確に言えば、表面意識が悪ではなく、表面意識は最も低い善であり、悪ではない。

この点、キリスト教でも自我を悪と説いているけれども、神は悪をあの世でもこの世でもひとかけらも造ってはおられない。

自我は単に低い善というまでである。

これを悪と決めつければ、法に矛盾が生じてくる。

神から遠い価値や人、世界や認識が、結果として神の創造しておられない悪を現象化しているために、その結果論から言えば、自我や欲望という低い善を悪と決めつけたい気持ちはわかりますが、そう決めつけることによって本来ない悪を作っている面もあります。

キリスト教が自我を悪と説いてきたのは、世界のすべての悪の源を辿れば、人間自我に行き着くからです。

すべての悪はここから出ていると見ているから自我を悪と説いてきました。

そしてそのすべての悪の源である自我を捨てれば、すべての悪はなくなる、と。

だから自我を捨てよと言ってきた。

捨てられないものを捨てよと説いてきました。

一見、合理的に見える。

すべての悪の源が自我であるならば、その源の自我を絶てば、すべての悪はなくなるように見える。

ところがその自我の霊的未熟があるうちは、悪はなくならない。

表面意識や自我を悪と決めつければ、法にこういった矛盾が出てくる。

3点の矛盾がある。

悪をなくすために自我を捨てよと言いながら、捨てても悪はなくならないという矛盾がひとつ。

また捨てられない自我を、捨てようとして捨てられない矛盾が二つ。

三つめは、自我を捨てた場合、その自我は霊的修行を放棄しているために、霊的な進化向上という霊的修行、すなわち人生の意義の否定となる。

霊的未熟が人類のすべての諸問題を生んでおり、それを解決するためには霊的な修行を通しての進化向上しかない。

自我の否定と放棄は、その人類の諸問題に解答をつけることのできる進化向上を放棄させるために、永遠に未熟な状態に置かれたままになるため、悪をなくしたいために自我を捨てようとしていたはずが、逆に悪が増えるという矛盾した現象として我々の世界にあらわれてくる。

すべての悪の源を自我と見ているために、人間は自我を有している存在ですから、ここから人間・罪の子の思想が出てきた。

人間は生まれながらに罪の原因とその結果とを負っている、と。

人間は信仰がなければ、自我のままに生きるために、人間は罪の子なのだ、と。

相対的な自我のことを言っているわけです。

方便です。

方便とは目的にもならず、否定もできない価値です。

自我そのものが方便です。

すなわち自我は目的にもならず、さりとて否定もできない。

結果として自我を目的にしている者が多く、それゆえに無限の悪が現象化しているために、その自我を捨てよと言い、否定してきました。

これがキリスト教です。

イエスはエマソンの言った両極端の中道に入っていない。

自我は自我単独で悪は犯せない。

人間とは、自我単独で悪を犯す存在と見ているのがキリスト教です。

だから罪の子の思想を説いてきた。

これは結果論です。

結果ですから原因があるわけです。

自我が結果として悪を犯すのは、ひとえに眼前の物質宇宙、すなわち神の体(物質)との感応関係から結果として悪を出します。

神の体が存在しなければ、自我は単独で悪を犯しようがない。

すべての悪の源は自我ではなく、神の体です。

しかして神の体は、それ自身悪ではない。

単に最も低い善というまでである。

神の体、すなわち物質がすべての悪を永遠に支配している。

表面意識が悪という言い方は誤解を招く言い方であり、方便です。

スウェーデンボルグも、あらゆる固有性のあるものはみな悪であり、人間は(自我を有しているがゆえに)生まれながら悪に生まれついているんです、と言い、みずから自身をも(自我を有しているがゆえに)悪だと述べていました。

キリスト教系はこういう考えなんですね。

イエスも信者から、主よ、正しき者よ、と言われて怒ってました。

なぜ、あなたは私を正しい者と言うのか。

正しき者は、天の父以外にはおられない、と。

イエスは、自分も自我を有しているがゆえに正しい者ではなく、自我や表面意識は悪であり、スウェーデンボルグがそうであったように、自分自身もそれだけならば悪だと思っていた。

すべての善と真理は潜在意識、すなわち神から来る、と説いています。

あなた方(の自我)には、髪の毛一本白くも黒くもする力はないのだ。

神に対しては、ただしかり、しかり、否、否であるべきだ。

それ以外から出ることは、神と自分を切った自我から出ているゆえに悪から出たのだ、とまで言っています。

神に対しては一切誓うなという教えも典型です。

神に対して何を誓うのか。

善を誓うのであろう。

神と自我、神と自分を切って、その自我単独の力と作用で、あたかも善をなしうるかのような錯覚と傲慢を意味しているゆえにイエスは神に誓うなと言った。

その誓った善は、神から来るのであって、自我から来るのではない。

あなた方は、神に誓ったとて、そのあなた方の自我には髪の毛一本黒くも白くもする力はないのだ。

いわんや善をなす力もない。

もし善ならば、それは神の力を使ってなすのであるから、一々神に誓うな、と。

イエスにとって誓うという行為は、神と自分を切って自我単独で、あたかも善をなしうるかのような傲慢を意味する楽園追放です。

神と自分、天と自己を切ったエデンの楽園追放です。

だから神に誓うなと言った。

そこまで自我を悪と決めつけ、捨てよと説教をしておりますが、人間不信か?

まるで地上人間は、牧場の牛か豚のようであり、とにかく霊天上界の神霊の言う通りしていればいいのだ、という傲慢な性質が見えます。

その霊天上界に間違いや未熟があれば、何の意味もない説教であり、人生の意義の否定につながると同時にこういった傲慢な考えは、いずれ奴隷制につながるでしょうね。

人間は豚や羊ではなく、神の子として霊的な修行をしているのであって、あの世の特定の神霊の考えの通りに生きるために生存しているわけではない。

一点の欠落もない完全な真理を説けるのでしたら、その考えも許されるのかもしれませんが、説けないわけですし、説いてもいないわけですから、単なる傲慢か方便でしょう。

自我を悪だ、悪だ、と逆に悪を作っている面がある。

生長の家ですと、真我独在、実相独在、本来、現象我なし、と言う。

自我は相対的であり、現象無常でコロコロと好き嫌いが時間と共に変化していきますので、自我を現象我とも言います。

そしてこの現象我(自我)を、「なし」と言い切っていたのが生長の家です。

ヘーゲル哲学では、この点をこう言っています。

精神の実体と本質は、自我同一性の概念におけるところの絶対的否定性である : ヘーゲル

精神の実体と本質、すなわち神の心とは、自我同一性を絶対的に否定したところにある。

自我同一性とは、自分が自分であること、すなわち自我や現象我のことを指しています。

個性や固有性と言っても同じ。

神の心は、これを絶対的に否定した地点に在る。

キリスト教系は、自我を悪と決めつけておりますが、神道やヘーゲル哲学では、必ずしも悪とは決めつけておらず、単に神は自我の奥にあり、自我そのものの中になく、その自我を絶対的に否定した内奥に在る。

神道系は、真我独在、実相独在、本来、現象我なし、と言い、自我は悪ではなく、ないのだと言っている。

ないものに悪も善もない。

自我を悪と決めつける考えも極端ですが、ないと言い切るのも極端です。

自我は悪でもなく、またないわけでもない。

これはあの世で日蓮も言っていました。

宇宙をなし、物質をなし、現象我をなし、と言い切るのは容易いが、ではその本来ない宇宙をなぜ、神が創造されたのか説明できず、あるいはなぜその本来ない宇宙で、これまた本来ない現象我が魂修行をしているのか、この答えも生長の家からはでない。

現象我をなしと言えば、人生の意義の否定となり、現象我を悪と言えば、罪の子の思想から逃れられず、永遠にその悪である現象我はなくならず、悪はなくならないゆえに仏国土の顕現もない。

この矛盾は、要は自我を正確に神の神眼からとらえていないために生じている。

自我は悪なのではなく、最も低い善であり、ないのではなく、在る自我が神の子として霊的修行をしている。

ただし自我は、最も低い善であるゆえに目的とすれば、悪は無限化してくると同時に自我をなしと言い切れば、根源の人生の意義の否定となる。

自我や物質なくして、人はどう修行するというのか。

自我がなく、物質宇宙が存在していない世界で、我々未熟な人類は、どう神に向かって進化向上し、修行をするというのか。

できはしない。

低いものを悪として一切認めないならば、多次元世界の低き霊域の人たちは、すべて生存していないはずである。

それは確かに神から遠く、低いからです。

しかして実際は存在している。

低いから「なし」というのも、向上心の問題において上を目指して進化向上していく方便としては許容できるが、低い霊域でもあるものはあり、存在するものは存在している。

低いもの、低い霊域、低い霊格が存在していると言っているのではない。

その最も低いところに最も高い神の寛容性が実在していると言っている。

この地上世界では、多次元世界の各世界の次元の者達が一同に会して修行をしているために、時代の節目においては低いものは淘汰され、高いものだけが残るという現象は、現象としてはありうる。

しかしながら多次元世界では、そういった現象はない。

仏と悪魔、仏と地獄、善と悪を丸のみにして生かしている神の寛容性が在る。

この神の寛容性なくば、低き者、幼き者、悪しき者、地獄霊や悪魔は存在していない。

そしてそれらが存在していないことを良きことのように言うかもしれないが、それは完全なる目的が不完全となる。

それは逆説的ながら、完全な真理に永遠のタイムを通して向かっているその完全な地点が元々、実は不完全だったことになる。

神の寛容性なくして悪魔も生存することはできない。

皮肉なことに悪魔が存在することによって神の寛容性の深さがあらわれている。

未熟な我々にとっては理解しがたい難題です。

未熟な者には難題でも、神にとっては難題ではない。

これが神と人間の差です。

神の寛容性こそが、神の完全性をあらわしている。

そして未熟な地上人間には、この神の寛容性を理解し、悟り、認識していくことを神から命ぜられているのでしょう。


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2018年02月01日

スーパー・ブルー・ブラッドムーンの映像



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スーパー・ブルー・ブラッドムーンは、うちの地域では曇っていたために見えなかったのですが、本日は雲一つないためにきれいな満月が出ています。

1日違いの曇りでしたが、当日はライブ映像で見ました。

何も日本とアメリカのみで見えていたのではなく、スーパー・ブルー・ブラッドムーンは世界各地で見えていたようです。

まるで人類に見せているようです。

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映像を記録で残しておこうと思う。

皆既月食の基本は、地球の影が月にうつり、月が隠れた後、太陽の特殊な赤い光線を浴びて赤銅色に変わり、血の色をした月になります。

こんな感じです。


まるで月意識が血の涙を流しているようです。

しかし美しい。

最後には食を抜けて通常の満月に戻ります。


これが世界各国で見られました。

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まず何と言っても最初は、ギリシャです。

アテナを祭るパルテノン神殿の背後からスーパー・ブルー・ブラッドムーンが昇っています。


まさに息をのむ光景です。

ブラッドムーンとは、文字通り「血塗られた月」ですが、美しいと同時に恐ろしいとも感じます。

エアバスのA350が、スーパー・ブルー・ブラッドムーンを避けています。


見ようによっては「逃げている」ようにも見える。

なぜ美しいものから逃げるのでしょう。

これは北米、南カリフォルニアのスーパー・ブルー・ブラッドムーンです。


まさに赤い血の月です。

誰でも今後、血の色を見るということでしょうか。

イギリスのBBCが、世界各地の皆既月食を簡単にまとめています。

アメリカ、インドネシア、中国、タイ、ミャンマー、サウジアラビア、トルコ、ギリシャ、そしてイギリスです。


ロイターも皆既月食の動画を上げていますが、前回スーパー・ブルー・ブラッドムーンが北米で見られたのは「1866年」だったと説明しているだけです。


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完全なる皆既月食のノーカット版は、朝日新聞が上げていますが、すべて見る人はいないでしょうね。

4時間以上あります。

皆既月食となり、明るく赤く照らしている部分だけを抜粋しておきます。






これはフィリピンですが現在、大規模噴火が懸念されているマヨン山とスーパー・ブルー・ブラッドムーンの共演です。

皆既月食と火山噴火の共演、フィリピン・マヨン山 AFP

活発な火山活動が続いているフィリピン・アルバイ州にあるマヨン山の火口の上に現われた、だいだい色の満月がゆっくりと欠けていく──噴火により避難を余儀なくされている住民は先月31日、人生に1度あるかないかの皆既月食と火山噴火の共演に感嘆の声を上げた。

31日夜の月は、空を見上げた避難住民らに畏怖の念を抱かせるとともに、ある種の娯楽と黙想の時を与えた。

リガオやギノバタンの町の学校では1教室に最大80人が身を寄せているが、月が深紅色になると、大人も子どももいっせいに歓声を上げた。


これですね。



噴火と皆既月食のコラボレーションです。

何か暗示的です。

美しいが不安を誘う。

喜びもあるが、恐ろしさもある。

皆既日食は太陽が隠れるわけですが、皆既月食となりますと、さすがに見せます。

今月の2月15日には、また皆既日食があり、3月は満月が2度くるブルームーンとなります。

今後、滅びゆく世界と人類の前で、月意識が最後の美しい姿を人類に見せて慈悲を垂れたのではないか。

そのように見えますが、そうならば、まさに神の慈悲です。

次回のスーパー・ブルー・ブラッドムーンは、「2037年1月31日」です。

この日までに仏国土を造っておかなければならないのかもしれません。




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2018年01月31日

デイ・ゼロ(DAY ZERO)4月16日に変更

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本日1月31日、ケープタウンのダムの貯水量が、また減少しました。

26.0%」となっています。


ホテルやジム、プールやサウナは、軒並み休業を強いられているようであり、明日からレベル6Bの規制レベルとなり、1日1人当たりの水の使用量は「87リットル」から更に「50リットル」に制限されます。

1日に最低必要とされる水の量である「100リットル」の半分です。

こういったガイドが流れています。

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シャワーで10リットル、洗濯で10リットル、飲料水やお茶、並びにコーヒーで3リットル、食器洗いで9リットル、料理で1リットル等々で「50リットル」とありますが、どれも厳しい数字です。

守れるかどうか怪しいです。

ケープタウンの年間降水量はこれです。

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ケープタウンの30年間での平均年間降雨量は「513ミリ」であり、去年は「153ミリ」です。

去年は平均の「30%」ほどしか雨がなかったことになる。

一昨年の2016年は「221ミリ」とあり、平均の「43%」しか降雨がなく、半分以下だったことがわかります。

2015年は「325ミリ」であり、年間平均の「63%」しか降っていない。

63%(2015年) → 43%(2016年) → 30%(2017年)

と推移しており、大干ばつは2015年から開始されていることがわかります。

わずか3年で「デイ・ゼロ」を設定するほどの危機に追い込まれている。

このギフ動画は、ケープタウンの水源が干ばつによってどれほどのダメージを受けているかをあらわした動画です。


ソースの記事では、ケープタウンの雨季は、5月〜9月までであり、この都市は水がなくなる寸前である。

ダムの総貯水量の「13.5%」に達したら、「デイ・ゼロ」が発生する。

その時点で残った水は病院や特定の集落に行くことになる。

市内のほとんどの市民は、水道水なしのまま放置される。

gif動画は、2014年1月から2018年1月までの期間に上下水道が劇的に枯渇したことを示している。

2014年はほぼ満タンだった。

2013年には「682ミリ」の雨が降った。

この年は数十年でもっとも潤った年です。

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この折れ線グラフは、6つの主要な貯水池の水位が2013年以降、どのように変化したかを詳細に示している。

降雨があれば、貯水池の水は補充されるが、ほとんどのグラフは下向きです。

例外の一つは、市の水の約4%を占めるアッパー・スティーンブラスだが、これは発電のためにフルに維持されている。

ケープタウン大学の学者Piotr Wolskiは、現在の干ばつの重大さを知るために1923年からの降水記録を分析した。

その結果、2016年と2017年のこのような少ない雨量が連続して起こる事態というのは、1000年に1回しか起こらないと述べた。

人口の増加とインフラの不足が、現在の水不足を悪化させた。

1995年から2018年までにケープタウンの人口は、およそ80%増加した。

同じ期間にダムの貯水量は15%増加したにとどまる。

農業部門はシステムの半分の水を使用している、とあります。

現地の予報では、今年2018年のケープタウンに大きな雨はないと悪い予測がされています。

当局は何としても「デイ・ゼロ」を回避しようとしておりますが、万が一にも回避できず、「デイ・ゼロ」に達してしまった場合、ケープタウンのほとんどの市民の自宅での蛇口は、150日間水が出ない状態に置かれます。

5か月です。

ほぼ半年ほど蛇口をひねっても水は出ない状況に陥る。

大変な事態です。

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ダムの総貯水量はグラフにあるように「89万8221メガリットル」です。

リットルで直せば「8982億2100万リットル」です。

先週の「24万4555メガリットル」は、今週「23万6111メガリットル」に減少しており、差し引き「8444メガリットル」の減少です。

1週間で「84億4400万リットル」減少している。

総貯水量「89万8221メガリットル」で割りますと、「0.94%」の減少となります。

8444÷898221×100=0.94%

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総貯水量「89万8221メガリットル」の「13.5%」に達したら「デイ・ゼロ」となります。

89万8221メガリットル×13.5%=12万1259.8メガリットル

12万1260メガリットル」ですね。

1212億6000万リットルです。

これが「13.5%」です。

現在のダムの最新の貯水量は「23万3637メガリットル」です。

差し引き後「11万2377メガリットル」減少すれば、「デイ・ゼロ」となる。

本日この「デイ・ゼロ」の日が変更されています。


現時点での「デイ・ゼロ」の日は「4月16日」です。

4月12日から4日間ほどプッシュされています。


当局の代替水源確保の事業の進捗状況は、先週の「57%」から「62%」にアップしています。

1日に水を87リットル以下に抑えて使用している市民のパーセンテージは、先週の「41%」から「55%」に上昇しています。

節水意識が高まっているようです。

いや、危機意識が高まっていると見るべきか。

ただ未だ「45%」の市民が1日87リットル以上の水を使用している。

ケープタウン当局は、果たして4月16日の「デイ・ゼロ」を回避できるか、あるいはこの日にちを延ばすことができるでしょうか。

厳しい戦いがつづきます。

この頃は丁度、米朝の緊張が高まっている時です。

なぜかリンクしているのですね。


posted by 管理者 at 23:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 国際